金沢聖書バプテスト教会

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野の花セミナーの事例発表

岡崎での野の花セミナー4

更新日:

岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表4





 この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先回に引き続いて特に娘の言動から整理します。



 4、自分の苦しみや悲しみを理解してくれているかどうか不安である。



 娘は、度々「こんな地味な病気ではなく、もっと派手な障がいなり、病気の方がよかった。」といいます。その言葉の意図するところは、決して精神病を軽蔑しているのではありませんし、病気に優劣をつけているわけでもありません。精神病が、表にあらわれない病気である(それに対して、ケガや他の病気ですと原因がはっきりしていますし、症状も発熱や嘔吐、下痢などの症状が見える事が多い)ので、仮病と思われていないだろうか、怠け者であると思われてはいないだろうかとの、不安からの言葉なのです。また、精神病の症状は、健康な人と共通する気持ちを持っていますので、ほとんどの人が、「心のもち方の問題ですよ。」とか「気持ちのもち方しだいで、誰でも思うところだから、そのような弱い気持ちに負けてしまってはダメだ、しっかりしなさい。」と叱咤激励される経験から出た言葉です。



 特に妄想(被害妄想・関連妄想・伝達妄想など)や、幻覚(幻聴・幻視など)は、本人の意志や思いなどの心の状態とは関係なく現れてきます。気持ちの持ち方一つと言われてもどうにもならない現実としてあるのです。それを気持ちの持ち方しだいだといわれることによって、理解されていないと言う孤独感と疎外感を味わうのです。



 そのような娘の言葉に私は、次の御言葉の意味の深さ・重さを改めて示されています。



 Ⅰペテロ3:8「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」



 これはパウロもロマ人への手紙15章5〜6節で大切な勧めとしています。まずは、「心を一つに」する事です。心が一つでなければ、教会はペテロの言う意味で一つなのではありません。そしてこのことは、いくら私たちが互いに口で「心を一つに」していると強調しても、決して心が一つである保障とはなりません。しかし私たちは、心が一つであることの保証を持っています。それは、イエスが、私たちの全ての罪過を一人で担ってくださり、私たちに代わって一人で苦しみを受けられ、虐げられ、殺されたというメッセージを互いに信じているということによってです。つまり、同じキリストの心を信仰によって持っていることによる保証です。これが、私たちの心の一致の基礎です。ここに立つ時、私たちには精神障がい者の痛みや悲しみをまったく同じくすることはできないけれども、キリストの十字架の心を信仰によって共有しているので、一致しているといえることを伝えることができるのです。



 次に第二の勧めである「同情し合い」がきます。その理解があれば「兄弟愛」と「あわれみ深くあれ」との勧めが、正しく理解出来るのです。 これらをパウロは、ロマ人への手紙12:15〜16で「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」と語っています。これは、精神障がい者を理解する上でも私たちに強く迫り来る御言葉です。



 5、服薬について偏見をもたれていること、欠かす事の出来ない事を理解してもらえない事です。



 薬についての偏見があります。精神薬が、犯罪に使われたり、かつては中毒症状を起こす事が多かったことは事実です。また服薬する事は、薬への依存であるとして服薬を悪い事をしているとみられる事です。私たちは、誰でも依存しあって生きております。神お一人だけが自存されます。神以外誰でも依存し合っているのです。体に障害を負っている人は、ヘルパーに、車椅子に、杖、盲導犬そして介助犬に依存します。依存しているものによって、その人の価値や努力が評価されるわけではありません。精神障がい者にとってその障害のための補助が服薬なのです。骨折した人が松葉杖を用いるのと全く同じなのです。



 むしろ互いに助け合う事は主の命令ではないでしょうか。


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