金沢聖書バプテスト教会

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野の花セミナーの事例発表

岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表5

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表5





 この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先週に引き続いて特に娘の言動から整理します。



 6、薬によって人格が変えられるような不安とどの自分が本当の自分なのかわからなくなる不安。



 このような不安は、本当に深刻なものといえるでしょう。私たち人間にとっては、いつも自分とは何ものであって、何ものでないか、これが大切な問いかけではないでしょうか。これは、薬によってなされる問いかけではなく、人間としていつも問い掛けなければならないものです。



 そして私たちは、福音の持つ真実なメッセージに自分の位置を見出す事が出来たのではないでしょうか。わたしたちは神に造られて、神の栄光を現し、神を喜ぶ者とされた存在です。それ以上では決してありません。つまり決して人間は神には成れない存在であるということです。又同時に人間は、人間以下のものでもありません。他の被造物の中でもっとも高価で価値あるものです。神はその様に見て下さっているのです。



(詩8篇6)「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」と詩篇の作者は語ります。



 ですから服薬をしていようがいまいが、そのような事によって私たちの価値が決まるわけでもありません。また私たちの価値は、人格的にどのような状態にあるかではありません。私たちの価値は主なる神が、そう見ていて下さることにその根拠を置いているのです。



 ですから、自分でどのように自分のことを考えるかによって自分を計るのでもはなく、又人がどのように評価して見てくれるかによってでもなく、神がどう見ていてくださるかの視点に立って自分を見ることが大切なのです。



 教会とはまさにそのような視点に立っているクリスチャンたちの集まりなのではないでしょうか。キリストにあって生きる者となったとは、古き人を脱ぎ捨てて、新しくキリストを着た者です。その服薬によって人が変わったわけでは、決してありません。同じ生きるならばどのように生きるかを祈りの中で、主体的に選択していかなければなりません。服薬を続ける事によって神に信頼し、兄弟姉妹の交わりと、社会的責任を果たして行くのが楽であるならばそれでよいではありませんか。私たちは、苦行や厳しい修練に救いがないことを知っているのですから。



 次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。



 1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。



 2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。



 3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。



 4、将来についての不安である。親亡き後の事



 5、親自身が原因探しをして、育て方の問題はなかったかと戸惑い、苦しむことが多い。



 6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出すして、伝える事に非常に困難を覚える。



 7、年々症状が悪くなってくる事に対してなかなか明日への具体的希望を見ることが出来ない。つまり将来のヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる事が多くある。



 8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、娘が不憫に思えたりすることの葛藤がある。

 

以上が、私の祈りの中で抱えていたものです。これらをまた一つ一つ、聖書から考えたいのです。


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