御言葉メール139
2005年11月30日
「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。私は多くの者のそしりを聞きました。・・・彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩篇31の12〜14)
ダビデは自分の事を、「死人」「こわれた器」だと表現します。
迫害、中傷、さげすみの中で人から忘れられた死人、こわれた器のように不用なものとして人から取り扱われている、との告白です。命をねらう敵への恐怖、あざけりとののしりの中での日常生活。しかしダビデは、決してそこで終わろうとしません。
絶望し全てを投げ出したくなる状況の中で、「しかし、主よ」と祈る恵みの中に生きていたのです。
預言者エリアやエリシアのようにアッと驚く奇跡を行うのでもなく、しかも神の支配されるイスラエルの王として、神と人に逆らう重大な罪を犯しながらも、来るべきメシアを生み出す家系となり、見習うべき信仰者として語り伝えられるのは、まさにこの点です。迫害、弱さ、罪の中にありながらも、その自分を赦して、必ず助けてくださる神に呼ばわり続けたーこれがダビデの信仰でした。私たちも、「主よ」と祈る恵みの中に生きるなら、ダビデと同じ祝福にあずかっているのです。
御言葉メール139
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