御言葉メール587
2011年6月25日
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66の2)
「へりくだる」、「心砕かれ」という言葉は、人格者、という言葉もある様に道徳的、倫理的に高い水準の人を思い浮かべるのではないでしょうか。そういう人が神様のお心を、知的にも経験的にも最もよくわかる、といわれるのです。私達はその様な人格者にならないと、神様を深く知り恵みに感謝する事は出来ないのでしょうか。
ある程度の努力は試みても、私など絶対無理という絶望感に襲われます。ところが聖書で言われている、へりくだりや心砕かれる状態は、私達が考えるものとは全く違います。謙りも心砕かれる事も、単なる倫理の用語ではなく、また人間関係をスムーズにする気遣いの一つでもない。
「打ちたたかれて絶望した状態、客観的にみじめな状況に置かれた者のもつ絶望感」(鍋谷堯爾)です。私は決してなりたくない状態です。しかしその時、人は神を心から呼び求める。そこに謙りがあります。一切の望みが絶ち切られたかの様に見える時、へりくだる者は希望を見出します。あなたの今の状況がそうであります様に。