御言葉メール624
2012年3月17日
「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1の8)
パウロの福音の中心は律法の行いによらず、ただ信仰のみによる、という信仰義認です。それに反する者はたとえ天の御使いであろうと呪われよ、と、十字架の死の意味を無効にする行いに対して戦うのです。
しかし実は旧約時代から律法の意味は、行う事を通して、行う事が出来ない自分の姿を気づかせ、メシアを期待し神に信頼するためでした。不妊の女であったサラも、夫に愛人を与えて子どもを得ようとした。エリコ在住の異邦人で遊女ラハブは、同胞にうそをついてイスラエルのスパイをかくまった。一つ一つの行いをみると、時代背景を考慮しながらも、その行いの故にりっぱな人物とはいえないところです。
しかし聖書は彼らを賞賛している。それは行いではなく神に対する信仰の故です。パウロが戦った信仰義認の教理に私達も立てます様に。罪は行いによって自分を義としたがります。行いは自分を正当化します。しかし信仰は、自分の罪が赦される恵みと平安を教えてくれます。