御言葉メール638
2012年6月23日
「つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」(ピリピ1の18)
パウロがピリピ教会に送ったピリピ人への手紙は、喜びの書簡といわれる程、「喜び」、「喜ぶ」という言葉が頻繁に出てきます。福音宣教の故に投獄中のパウロが、ピリピ教会との信仰の交わりをどれほど喜んでいたのかがわかります。
それではこの喜びは、どういう喜びだったのでしょう。私達が喜ぶ時は、自分の願いがかなったり、思い通りになったりする時です。しかしパウロは自由のない牢獄生活でした。更にパウロが慕わしく思っているピリピの教会で、パウロへの嫉みから、自分の勢力を広げるためにキリストを宣べ伝える人達がいた。パウロがその苦しみの中で考えた事は、正しくキリストが宣べ伝えられているかどうか、という事でした。
キリストが伝えられているなら、自分がどの様な扱いをされようとそれを喜ぶ、とパウロは考えたのです。苦しみや辛さを持ちながら、それでも喜べる歩みがあるのだと知る時、私達はキリストに期待と慰めを見出す事ができるのではないでしょうか。