御言葉メール685
2013年6月15日
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ7の25)
この箇所はキリスト者でなければ、自分の経験として決して理解できないところではないでしょうか。キリスト者でなくても、良心の呵責とか、あらゆる事で自分を責め続けるという事はあるでしょう。
しかし犯した罪の結果、自分に腹を立てることはあっても、それは罪を憎んでいることにはならないのです。罪の結果でも、自分にとって都合の良い事であれば、その罪の中で満足するでしょう。また罪を腹立たしく思う事はあっても、キリスト者の場合は罪を憎まないではおれなくなる。キリスト者は、なおもその死ぬべきからだの中に、赦されてはいるが罪を残しています。
その罪との戦いは、私には自分のしている事がわかりません、と告白させるのです。良いとわかっていてもできない、してはいけないとわかっている悪を行ってしまう。聖書の神を知り求める程に、自分の内側に住みつく罪が具体的にわかってくる。この戦いを通して、キリストの赦しの恵みと感謝が、更に具体的に私達の経験となっていくでしょう。この戦いは、罪赦され永遠の命を確信したキリスト者しかできない戦いなのです。