御言葉メール806
2015年11月21日(記:辻嵐桂子)
「ヨナは怒って、主に祈って言った。『─(中略)─私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。』」(ヨナ書3章2節)
本来なら賛美されるべき神のご性質だが、ヨナは怒りを露にする。敵国アッシリヤの首都ニネベの人々が、神の言葉を聞いて悔い改め、神がさばきを思い直されたからである。
神の恩寵も、自分たちにのみ向けられている間は喜びだが、赦しがたい敵に向けられた時には我慢がならなかったのだろう。アッシリヤはイスラエルを滅ぼす国である。ヨナは愛国心が強かった。
今日も、独裁者やテロリストのために「彼らにも神のあわれみがあるよう祈ろう」などと言えば、不快感を表す人々がいる。
私たちはどうだろう?身近な敵や迫害者のためにも祈っているだろうか?彼らが神のあわれみを受けた時、それを喜べるだろうか?
神は、ヨナの怒りが不当であることを示し、一夜で生え一夜で枯れた植物を惜しむヨナに向かって、ニネベに住む一人一人を神が惜しむのは当然ではないかと諭された。
「わたしは悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」(エゼキエル書33章11節)
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(テモテへの手紙第Ⅱ2章4節)