御言葉メール820
2016年2月27日(記:辻嵐桂子)
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前から離れて、どこへのがれましょう。」(詩篇139篇7節)
この詩篇139篇が扱うテーマは、神の全知性、遍在性、全能性といった、きわめて神学的ものである。だが私個人は、この詩篇ほど神との深い人格的な関係を思い起こさせてくれる箇所はないと感じている。
遍在とは、あらゆる場所に神がおられ、空間的にも時間的にも、神が感知しない領域はないということである。
詩人は、天に上っても、よみにも下っても、また海の果てに住んでも、神の御手の及ばない場所はなく、闇も光の如く明るく、何も隠されてはいないと告白する。
私たちクリスチャンが神から離れ、また神に捨てられることは決してない。
にもかかわらず、私たちは時々神を失う。
皆がそうとは言わないが、しばしばクリスチャンが、神を信じられなくなったと言い、また、神の恵みを感じられないと言うのを聞く。悩みが大きすぎる故か。
私の場合は自分の思いや欲が強すぎて、神の正義もさばきも直視できず、信仰を否定しようとした時期があった。まさに神から逃れようとしたのだ。
だが悟った(いや、悟らせて頂いた)。私が認めようが認めなかろうが、神は存在する。そして、私がどんな状態に陥っても、神は私を愛し、私を離さないと。
神に背を向け自分の思いを通そうとする歩みは、本当に苦痛であった。そこに神の祝福がないからである。
だが今は、イエス・キリストのあの御言葉を心にとめる。やはりイエスのもとにこそ平安があるのだ。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章30節)