御言葉メール849
2016年9月17日(記:斉藤文子)
「わたしは、彼女(イスラエル)がすべてこれらのことをしたあとで、私に帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。」(エレミヤ3の7)
聖書は神の愛について語ります。イエスキリストの十字架は、神の愛が最もよく集約され現れているところです。そのイエスの十字架の贖いを計画される神の愛は、旧約聖書にあますところなく書かれています。
預言者エレミヤは、神の愛と誠実さに背を向け裏切るイスラエルの民を、なおも誠実を尽くして愛し続けられる神を提示するのです。奴隷の地エジプトからイスラエルを救出し、愛と信頼に基づく契約を結び、豊かなカナンの地に導かれた神。その愛と恵みに対してイスラエルは何をしたか。イスラエルは神と契約を無視して反逆し、異教の神々を拝み、自分の欲望のままに生活する。困ったことが起きると、「私達を救ってください」と恥ずかしげも無く言う。
人間なら怒りのあまり、見限り、無視し、関係を絶ちきってせいせいするところです。しかし神は決して見捨てられない。神の恵みを思い出させ、訓戒し、説得し懲らしめ裁かれる。裁かれるのは見捨てるためではありません。神の元に帰ってくるのを待っておられるのです。残念ですが私はこのような愛を理解することさえできない。哀れみの神が心の目を開いてくださって、今、受けている愛がどの様に偉大なものであるかを、ますます悟らせてくださいます様に。