御言葉メール851
2016年10月1日(記:斉藤文子)
「愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない」(エレミヤ5の21)
私は人の話を聞く事が、なかなかできない人間なのだな、と今更にして思います。人が何を考えているのか、何を望んでいるのか、何をしようと思っているのか。それらを自分の先入観を持たずに聞くことが難しい。それは神のことばを聞く、という姿勢に最もよくあらわれてきます。
神が、目があっても見えず耳があっても聞こえない、と言われるみことばは、自分にとって本当にそうだと思わせられるのです。見ていても自分の見たいものしか見ていない。聞いていても自分の聞きたいものしか聞いていない。そうすると本当に神が、私達に伝えようとされている事がわからない。イスラエルはまさに、その様な状態の中にどっぷりつかっていました。神でないものを拝み、そこから立ち帰る様に、という神の勧めを聞く事もなく、裁きとしてバビロン捕囚されるという宣告を信じる事もなく、その日を迎える。
そして、「何故、神は我々をこんな目に遭わせるのか」と言う。しかし、どこまでも愚かな民を愛し約束を守られる神は、更に70年後に捕囚から解放する、という回復の約束をされるのです。神のことばは、どんな辛い現実もそれで終わらない、希望があります。私達はこの神のことばに、目と耳と心が開かれて、最悪と思われる時にも希望を見出す者となります様に。