御言葉メール889
2017年6月24日(記:斎藤文子)
「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」エペソ3の13
私達が神を信じた時、罪が赦された幸いを感謝した事は事実です。しかしまた、様々な期待を確かに持ったことも事実ではないでしょうか。自分が清められる、病気、経済、学校や仕事、人間関係等に神様が働いて自分の願っている様になっていく。それが神の素晴らしさを証していくことになる、と。ところが現実、自分の願っていない事が起こってくると私などは 自分や周りに、そして神に失望してしまう。更にこんな事では周りに証できない、と自分で勝手に思ってしまうのです。
しかしパウロは違った。キリストの神をユダヤ人以外に宣べ伝えたパウロは、カイザリヤという町で2年、ローマで2年、投獄されます。普通なら神への呪いの言葉がでてもおかしくない。パウロの反対者のみならず、パウロを通して信じた者さえ、キリストの神の正義と慈しみを疑わせるには十分な出来事です。
しかし当のパウロは、神へのうらみ、つらみを一切、発していない。むしろこの投獄こそが異邦人伝道の価値の高さを証している、だから落胆しないで欲しい、と。この様にパウロに言わせた神。私が苦しみの時、パウロの様に言えないのはなぜだろうか。神の知識も無い事と同時に、神との交わりの中で神のすばらしさを経験していないからだろうと思わざるを得ません。何にもまして神を求める事がどんなに幸いかを、日々思い出す事ができます様に。