御言葉メール920
2018年2月17日(記:斉藤文子)
「もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない……また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまづきを置く。」エゼキエル3の18,19
旧約聖書は、正しい人、悪い者という区別が多く出てきます。エゼキエル書のこの箇所もそうです。この区別は、多分に旧約的です。新約においては、キリストの啓示によって罪と恵みの対比がより明らかになります。善人悪人の区別が取り去られる。人間は一人として「義人はいない」のです。それは「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」とある通りです。そして「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず」神の裁きに服さなければならないことが明らかにされる。
しかしイエスキリストの贖いのわざにより、罪と滅びから救われ、永遠のいのちに至る福音の道が示された。旧約においても律法を表面的に守っている事を、神は暴かれます。心から守ろうとする時、守ることができない自分の姿を知り悔い改めて、自分を救ってくださるメシアを求める、これが神のみこころでした。これが新約に入るとキリストの赦しがすでに与えられている中で、自分の罪を認める事が神への感謝に変わるのです。
旧約と新約は、自分の罪を贖う方を待ち望む信仰と、すでにそれを得て信じるという違いはあるものの、いずれにしても、その中心は、罪を贖うメシアへの期待と感謝なのです。