御言葉メール978
2019年5月18日(記:辻嵐桂子)
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル人への手紙10章10節)
イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を贖うため神が定め、イエスがその神のみこころに完全に従うことにより成就した。
ただ一度だけ献げられたとは、年毎に献げられる旧約律法の贖罪のいけにえと比較して、著者が繰返し述べているところである。
この歴史上ただ一度の出来事が私たちにもたらしたものは、完全な罪の贖い、すなわち私たちの罪は完全に赦され、神に受け入れられる聖なるものとされたのである。
クリスチャンは神の聖徒と呼ばれる。
だが自分自身に目を向ければ、未熟で、俗的で、罪深い、聖徒と呼ぶには程遠い現実の姿を見る。
クリスチャンでなくとも、自分より立派な人は大勢いる。
だが聖書によるなら、聖とは、他と区別されることを言うようである。
すなわち、罪故に神から離れ、さばきを待つばかりのこの世界にあって、神の目には、私たちは神のものとして区別され、特別に取り扱われ、救いに入れられているということである。
キリストを信じれば直ちに聖人君子のようになれるわけではない。
だが完成、完全なもに向かう聖化の歩みが始まる。それはキリストの従順に学ぶ歩みである。
聖書は、私たちの立ち位置と、目指すべき方向を、常に明らかにしてくれる。幸いである。