御言葉メール1003
2019年11月30日(記:斉藤文子)
「わたし(イエス)を見た人は、父を見たのです。」ヨハネ14の9
私達は、この目で神を見ることができれば信じられるのだが、と、一度ならず考えた経験を持っているのではないでしょうか。その時の私達が考える神というのは、自分の今の必要にすぐ答えてくれる神、また神についての自分のイメージと全く同じである、という事が考えられます。自分のイメージという場合、人間にはない能力があったり神々しい光の中におられる等いろいろあることでしょう。私達人間は自分の都合とイメージにあわせて、様々な神を想像し、また造りだすのです。
イエスの弟子のピリポはイエスに、私達に父を見せてください」と願います。その時、イエスは冒頭のことばを言われます。わたしを見た人は父、即ち神を見たのです、と。長い間、キリストと行動を共にしてきたピリポであっても、イエスの人格と、ことば、業を通して、そこに神の姿を見ることはできなかった。肉眼でみていても、同じ人間として寝食を共にするイエスを、偉大な師と見れても神と同一の方としてみることはできなかったのです。
しかし今や、ピリポと同じ様な私達ですが哀れみによって、書かれた聖書のことばを通して、イエスキリストこそ人となられた神である、と信じる恵みにあずかりました。神のことばを聞きたい時、イエスのことばが聖書にあります。神を見たいならイエスの人格とその業が神を現わしている。神の愛はまことにイエスに現わされている。肉眼では見えない神を、聖霊により心でみています。受肉された神のクリスマスを待ち望みお祝いしましょう。