御言葉メール1014
2020年2月23日(記:辻嵐桂子)
私のたましいは 神を 生ける神を求めて 渇いています。(詩篇42篇2節)
聖書の中で(特に詩篇には)、主の御言葉や主御自身を慕って、しばしば渇くという表現が使われている。
それは、困難を極めた状況での作者の神への訴え、神のお取り扱いを求める叫びであったり、神の御言葉や神礼拝を切望する祈りであったりする。
私たちはこれほど神を切望し、神の御言葉に飢え渇いているだろうか。
確かにキリスト教に出会ったばかりの頃は、むさぼるように聖書を読んだと思うが。
日曜礼拝、祈り会、日々の祈り(主に食前の)は、今や習慣となり、様々な学びの機会にも、よほど切望してのぞむというわけではない。
自由に聖書が読めなくなったり、礼拝に出席できないような状況が続いたら、あるいは何か困難な状況に陥ったら、私は神を求め、私のたましいは詩篇の作者たちのように、神の御言葉を慕ってあえぐのだろうか?
今はこれで十分なので、飢えも渇きも感じないということなのだろうか?
よく年をとると、身体は脱水状態になっていても、本人に渇いた自覚がなく、そのまま水分を摂取することなく、深刻な事態を招くケースがあるという。
霊的渇きにも、同様のことがあるのではないだろうか。
もしそうであれば、私たちはまずその飢え渇きを知ることができるようにと、祈らなければならないのではないだろうか。