御言葉メール1013
2020年2月15日(記:斉藤文子)
「ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』」(ヨハネの福音書18の38)
この時代、真理とは?と考える機会があるだろうか。その様な問いは、自分の中に社会の中に、矛盾や葛藤を持っているから出てくる問いの様に思われます。現代社会は自分の内側の矛盾や葛藤を考えなくてもよいようにさせるものが多くあります。政治や社会の多くの矛盾で失望しても、他に自分で楽しめるものを見つけることもできる。
その様な時代環境の中では、真理とは、と、問うことは難しい。なぜならそれは自分の内側、または社会に内包されたものの中には真理はないと知る事から始まるので、外側に求めなければならないからです。しかし私達は自分の持つ問題が手っ取りばやく解決する事を願うので、それさえ解決できればあえて真理などというものを求めなくても生きていける、と考えてしまいます。
今の時代は自分を楽しませ、正当化させるものが確かに多くありますが、2千年前のピラトもそうでした。キリストが真理をあかしするために来た、と言われた時、ピラトは皮肉っぽく冷ややかに答えるのです。「真理とは何なのか」と。ピラトは支配者として、自分の地位が安泰であるならそれでよかった。真理などどうでもよかった。今の時代に生きる私達とよく似ています。
わたしが道であり真理でありいのちである、と言われたイエスを知り信じる人生をおくっているなら、私達は自分の内に真理はなく、ただキリストにのみ真理と義さがある、と理解した者です。私達の内側の罪を確認すればするほど、絶対他者なるキリストの真理が、私達の生活の隅々まで罪の赦しと愛によって覆われていることを発見しないではおれないでしょう。