御言葉メール1027
2020年5月25日(記:斎藤文子)
「私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。」第1コリント2の7
私達は様々な問題がある時、クリスチャンであればよい知恵が与えられるようにと祈ります。私がそういう時に考えている知恵というのは、問題がすっきり解決し、自分にとっても周りにとっても、良い結果がもたらされるようなものです。自分が損をしたり、悪く思われたり、こんなはずじゃないのにと思ってしまうような結果になった場合、なかなかそれを知恵とは呼べない。私自身の根底にあるのは、人も生かすけど自分も生かされなければならない、という思いです。自分が良い場合はなおさらですが、悪い場合で当然の結果だとしても、自分が傷つかないように守られる事を願う。知恵を求める思いはあっても、基本的に自分を守るという意識しなくてもでてくる当然の思いがあります。
だから、神の知恵がそうでない事に圧倒されてしまう。神の知恵は、人類を救う時に、神の全知全能の義さをもって罪と悪をなぎたおすものではなく、この世とこの世を支配するサタンに屈服させられたような弱さを身にまとわれた。キリストを殺そうとする者にとって、まことに思うツボだったのです。しかし敵に対して全く抵抗されないこの姿の中に、私達の救いがあった。
これは人類と背後で操るサタンが決して思いもつかない救いの方法でした。これが神の知恵です。絶対、私の内側からでてこない知恵です。神を崇めざるをえません。同時に神に従う知恵を与えてください、と祈らされます。