御言葉メール1030
2020年6月13日(記:辻嵐桂子)
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブの手紙1章23節)
あまり行いを強調すると律法主義に陥り、聖書の主要な教理である信仰義認(救いは神の一方的な恵みであって、ただイエス・キリストを信じる信仰のみによるという教え)を損なわせると言う人たちがいる。
だが聖書には、信じた者がどう行動すべきか、また生きるべきか、多くの言及がある。
主もまた、わたしに向かって『主よ主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイの福音書7章21節)と言っておられる。
ヤコブは、行いの伴わない宗教の虚しさを、多くの言葉を用いて語っている。(ヤコブの手紙1章22節~2章26節)
私はクリスチャンとして日曜礼拝を尊守し、献金をし、奉仕をし、聖書研究会にも参加している。もし、これらのことによって自分はクリスチャンとしてまずまず合格だ、と考えるなら、それこそ律法主義に陥っていると言えるだろう。
ヤコブの手紙や、その他信仰者の行いについて書かれている聖書の箇所を読むと、私はなんとも苦々しい思いになる。日頃の私の言動が、あまりに俗的で、愛を欠いているからであろう。
とりもなおさずそれは私の内に、自己愛やプライド、偏見や敵意といった罪の残滓があり、救われてもなおきよめられなければならないものがあるからである。
もちろんきよめられることもまた神によると信じている。
神が求めておられることは何か?
このことから目を背けて神に向かわないなら、それこそ自分を欺いていることにるのではないかと思うのである。