御言葉メール1034
2020年7月12日(記:辻嵐桂子)
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2章14節)
このような箇所を読むと私たちは、救いには行いも必要なのではないかと勘違いし、パウロが主張する「信仰義認=信仰によって人は義と認められ救われる)」(ローマ3章21節~4章26節等参照)に相反するのではないかと戸惑ってしまう。
だが、飢える者に満腹になれと言って食べ物を与えず、凍える者に暖かくなれと言って着る物を与えないなら、その言葉に何の救いもないように、行いのない信仰は死んだものであると主張するヤコブの言葉は(15-17節)、具体的で心に刺さる。
ヤコブは決して救いを得るのに、信仰に行いが付け加えられるべきだとは考えていない。
救いに至る真の信仰には、行いが伴うものだと主張しているのである。
おそらくヤコブの念頭には、口先だけの偽の信仰者の存在もあったのだろう(19節参照)。彼らは神を信じていると言いながら神を恐れず、イエスの言葉を実行しようともしないのだ。ヤコブはそんな彼らの信仰に力はなく、最後の審判の時に何の役にも立たないと言っているのではないか。(13節を最終的さばきと解釈して)
イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、すでに神との関係を確立している私たちは、生きた信仰を証していきたいものである。