御言葉メール1080
2021年6月5日
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア書6章6節)
一方で神の律法に従い例祭を守り、いけにえをささげながら、他方で国をあげて偶像礼拝を行い、不法を貪るイスラエルの民に、神の判決が下されようとしていた。
この時代イスラエルは、まさに国家壊滅の危機に瀕していた。
彼らは形式だけの悔い改めの言葉を唱え(1-3節)、それで神に許されると自負するが、そこには罪の告白も行動の変革も一切なく、このような不誠実を神は嘆かれる。
上記の御言葉はイエス・キリストも、当時のユダヤ教指導者たちの形式だけの律法主義を嘆き、幾度も引用された(マタイの福音書9章13節、12章7節)。
彼らは主イエスを遣わされた神の御心を理解しようともせず、自分勝手に律法を解釈し、自分たちの規範で他人をさばき、自分たちはそれを守っているので神に受け入れられると自負していたのである。
そこで私たちクリスチャンもまた、留意しなければならない。
週に一度礼拝を守り、一定の奉仕と定まった額の献金を捧げ、それで神への責任を十分果たしていると考えてはいないか。
信仰生活は常に、形式主義に陥る危険性を秘めている。
上記の御言葉は問いかける。
私たちの礼拝は、奉仕や献金は、神に喜ばれているだろうか?
日々のデボーションは私たちに、悔い改めと刷新を与え続けているだろうか?
私たちの神への愛は、真実であろうか?