御言葉メール1124
2022年4月23日
「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っているものすべへを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書13章44節)
信仰の価値とは何なのか?
信仰は直ちに病を癒さない。国家間の紛争を終わらせたりしない。人々を貧困や苦しみから必ずしも救い出さない。
信仰は、単なる心の拠なのだろうか?
それは隠された宝のようなもので、多くの人の目に今は隠されている。
主イエスは一連のたとえ話の中で世の終わりの審判について、その時善人と悪人は選り分けられ、その処遇が決定的に異なることを明らかにされた(24-30、36-43、47-50節)。
信仰により、イエス・キリストの十字架の贖いによって全ての罪を赦され、神の義を賦与された者の幸いは如何程であるか。
全ての罪人に定められた神のさばき=燃える炉(13章42節)=ゲヘナ(10章28節)=永遠の嫌悪(ダニエル12:2)を回避できるのみならず、神の国でキリストと共に栄光を受けるのである(13章43節)。
主イエスは言われた。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイの福音書16章26節)
持てる全てを投げ売ってでも得るべき宝、しかし、決して人は自分で買い戻すことが出来ない永遠のいのち。信仰によって私たちが得るものは、他に代えがたい価値を持っているのである。