金沢聖書バプテスト教会

金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

神の善性 神の本性と信仰生活

善なる神

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1、神の善性

 神の善性とは、神が「良い方」であるという意味で使う言葉です。「良い」という言葉は、非常に広い意味を持っています。旧約聖書の原語でも「良い」という言葉は、実践的、物質的、経済的に良いこと、望ましいもの、喜ばしいもの、美しいものについて、質や効率について、道徳的によいことについて、そして人生において何が良いかについてなど、非常に広範囲の事柄について使われる言葉です。これは、日本語の「良い」という言葉の使い方にも、かなり共通点があるように思われます。ここで覚えたいのは、神が良い方だと言われる時、道徳的善だけを言っているのではなく、すべての事柄について良い方であり、良いことのみをなされるお方であるということを言っているということです。
 神は「良い方」であるということは、イエス・キリストがはっきりと明言されました。イエス様は、「良い方は、ひとりだけです」と言われました(マタイ19:17)。並行記事マルコ10:18(ルカ18:19)では、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われています。この「尊い」という言葉は、「良い」と全く同じ言葉が使われています。そして、その良い方は、聖書の言う神であり、それ以外に「良い方」と言える存在はないと言われているのです。そうしますと、先ほど「良い」という言葉が道徳的なことだけでなく、あらゆることに当てはまることを見ましたが、そのあらゆることにおいて完全に「良い」と言えるお方は、神おひとりしかおられないという意味であることがわかります。これが聖書の主張であり、イエス・キリストの証言です。

2、聖書の神はすべての価値基準

「良い」という意味は、「正しい」と同じ意味ではありません。「正しい」という言葉は、ある点で法律的であり、規範を現しています。しかし、「良い」という意味には、「正しい」よりも幅広く、望ましい、喜ばしい、称賛に価するという意味も含まれます。ここには、価値とか評価といった側面があります。単に正しいというよりも積極的な面です。ところが、この何が「良い」かという基準は、時代により国により随分ことなります。個人の間でもかなり違うものです。神がおられないとするならば、何が良いかという価値基準は、時代や人によって変わってしまうものであって、ある行為の価値も人や時代によって大きく変わり、あるときは非常に評価されることがあっても、あるときには、まったく無価値と見なされることもあり得ます。また、人間の考える良いこと、善は、自分に害を及ぼさないこと、自分にとって好ましく、望ましいことです。それは、自分の体調や環境によって変わるでしょうし、言われた言葉によっても変わります。また集団における良さは、ともすると流行であり、多数決的であります。大人数が益と見なせば、戦争でさえ善となり得ます。あるいは、大きな魅力、権力などの力を持った少数の人物によって決められたりします。そのような人間の善は、非常に信頼のおけないものです。しかし、聖書は人や環境に左右されない善があることを教え、すべての善の源は、神にあると教えています。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブ1:17)。そして、神は永遠の神であられますから、その基準は決して変わることがありません。
神が良いことをなされるというのは、創造の記事から見ることが出来ます。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)。このことは、神が良いことを成されたと同時に、神が造られたすべてのものは、本来神の基準から照らして「良い」ものであったことを教えます。つまり、有益であり、美しく、望ましく、喜ばしい存在であったのです。しかし、サタンの使い、蛇は、それ以外に良いものがあるとして、アダムとエバを誘惑しました。
  あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3:6,7
 この時、神が食べてはならないと命じられた実は、エバの目に食べるのに「良く」、目に「慕わしく」、「好ましかった」とあります。神がよしとされたもの以外に良い物があるとする誘惑に負け、神の命令に背いてその実を食べた結果、罪が入り、死が入り、そしてすべての被造物ものろわれて、本来の良さの多くを失ってしまいました。ここには、人が良いと思うものが必ずしも良いとは限らない実例があります。むしろ、神を離れたときに、恐ろしく倒錯した判断をしてしまいました。イエス・キリストが「良い方は、ひとりだけです」と言われたとき、神のみが完全に良い存在であり、神が良いと思われるもの、神がよしとされるもの以外に、良いものは存在しないことも教えています。

3、神は良いことをされる方

 神の善性が、神のご性質を言うとき、神は良いことしかなされないことを示します。しかし、それが人間の目に良いと見えるとは限りません。しかし神が善なる方であることを学ぶとき、たとえ私たちの目によく見えなくとも、神は良いことをなさるのだという確信が与えられます。
 それだけでなく、神はご自分の選ばれた者に対し、良い物を拒まれないお方です。詩篇104~107篇は、神がご自分の民に常に良いことを図られたことを告白しています。106:1の「主はまことにいつくしみ深い」の「いつくしみ深い」は、「優れて良い」という意味の言葉です。そこには、神の怒りや、罰を与えられたことも書かれています。そのことも含めて、神は優れて良いことをなされたのであるから、その御業をほめたたえよと告白しています。また、イエス様は、地上の父でさえ子に良い物を与えるのだから、「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)と教えられました。また、ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあり、32節には「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と言われています。ここに、神はご自分を求める者、神が選ばれた者に対し、良い物を喜んでお与えになり、拒まれない方であることが教えられています。それは、ローマ8:32が教えるように、キリストの贖いにおいて、完全に現れ、示されました。神が、罪を犯し、罰するにふさわしい者となってしまった人間に対し、最も良いことを図ってくださったのが十字架の救いでした。そこには、神の聖、義と公平を犠牲にすることなく、罪を完全に裁き、完全に人を罪と罪の負い目から切り離し、神のもとに取り戻すことを可能としました。それは、第一に神にとって良いことでありました。それと同時に、神にとってこの上なく「良い」方であるイエス・キリストを信じる者にお与えになったという事実がそこにあります。「良い」ということは、神にとって「良い」ことであります。神が「良い」ことを成されるとき、それは、人間に善なる神が持てる最大の「良い」方を与えになるのだという事実、それがキリストの十字架でした。キリストの十字架の贖いは、神が贖った者に対して、それ以外のすべてのことにおいても、神は最善をなされるということの保証でもあります。

4、神の善性を知った者は

 神が「良い」方であるとき、「良い」とは、あらゆる「良い」ものを含むことを学びました。そして、「良い」というのは、喜ばしく、好ましく、慕わしいものです。その事を知るとき、人が求めるべきすべてのものは神の中にあることを知ります。そして、神から善を学ぶとき、それは見えない世界だけでなく、見えるこの地上で生きていく上においても、絶対的な価値を保証してくれるものでもあります。
 神は、人を造られたとき、神のかたちに人をお造りになり(創世記1:26~27)、人を含めた世界を「非常によかった」と言われました。これは、人が本来的に神の善性に似せて造られたということであり、人間の存在において、性質において「良く」造られ、神にあって「良い」行いができるように造られました。しかし、人に罪が入ってから、人は神の「良い」と言われるものを知ろうとせず、拒み、良いものに関して無知となり、良いことを行うことができなくなりました(参考エペソ4:18~19)。しかし、イエス・キリストによる救いは、キリストによって良い行いができるようにさせることを、聖書は次のように言っています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)。そのために、まず神の目に何が良いかをわきまえ知ることが勧められます。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)。そして、「…私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう」(ガラテヤ6:10)と勧められます。詩篇著者は、「あなたはいつくしみ深く〔良く〕あられ、いつくしみを施されます〔良きことをなされる〕。どうか、あなたのおきてを私に教えてください」と祈ります。神が良い方であられるゆえに、良いことを行われる。自分もその良さを知り、良く行えるように、聖書の真理を教えて下さいと祈るのです。
 神が善であられることを知るなら、私たちの人生におけるすべての良いこと、誉れあること、望ましく、喜ばしい、つまり追い求めるべきものは、すべて神の内にあることを知るのです。その人は、善なる神に頼り、祈り、聖書にそれを求め、それを基準として価値を認め、それを追い求めて行きます。そして、神はその人の内に良い物を形づくり、良い行いをさせて下さるのです。それは、神にとって喜びであり、その人にとっても喜びとなります。また、神が善であることを知るならば、たとえ自分の目に憂える事態に陥っても、それにふりまわされず、それでも神は良いことをしてくださっておられることを信じて、すべてのことの中にあって感謝することができるのです(Ⅰテサロニケ5:18)。

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