1.空間を超越したご存在
前回神の無限性について、時間の無限性である永遠性について学びました。神の無限性とは、数量的な尺度の積み重ねではありませんでした。時間で言うならば、時間を超越しており、過去、現在、未来すべてを現在形であつかい、現在として捉えられるご存在でありました。また、時間にとらわれている私たち人間から見れば、永遠性を持った神は、つねに変わらないお方でありました。これは、空間の無限性においても同じようなことが言えます。
神の空間の無限性のことを遍在性と言います。あまねく、どこにでもおられるという意味です。これも量的な無限ではありません。聖書は、神を人知のおよばないほど大きな方として教えています。「神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私(ソロモン)の建てた宮など、なおさらのことです」(Ⅰ列王記8:27)。このことを神の「広大さ」と言います。しかし、神を空間的に無限に大きな方であるとする場合、問題が生じます。しかし、ある場所に神がおられると言う場合、それは巨大な神の一部であるに過ぎなくなってしまいます。神は、どの場所にもおられると同時に、どこにおいても完全な神であられます。それが神の空間における無限性、遍在性です。
エレミヤ書では、「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」(エレ23:24)と言われています。遍在性は、神が空間を超越したお方であることの現れでもあります。神の永遠性において、時間の流れにとらわれず、過去、現在、未来をすべて現在のようにご存在されているように、空間においても同じことが言えます。場所にとらわれることなく、同時に、あらゆる場所にご存在されるのです。これは、神が霊なる方であるからです。ですから、クリスチャンは礼拝において、祈りにおいて、神の導き・助けを受けることにおいて、場所による制約を受けることがありません。ですから、教会という場所においての祈りと、家庭での祈りとに質的な差はありません。だからといって、神の遍在性が教会での礼拝の大切さを減ずるものではありません。教会は、神に召された者の集まりであり、キリストの体です。主日において、このキリストの身体としてともに集まり、ともに礼拝をお捧げすることが神のご命令であり、喜ばれることでもあります。しかし、教会の場所においても制約を受けることはなく、私たちはエルサレムに巡礼することもありません。また、家庭においても、職場においても、神はそこにもおられ、そこに働かれる神のお力が、場所によって強まったり、弱まったりすることはありません。神は、空間によって制約を受けるお方ではないからです。
2.神の遍在性は人が神に知られている幸いを教える
詩篇139篇は、人がどこに行っても、そこに神がおられることを記します。それは、この地上だけでなく、死後の世界、天上の世界においてもそうであります。そして、著者は、神が遍在されていることによって、自分が知られている幸いについて歌っています。たとえどんな場所に行っても、神に知られない場所はありません。どのような場所にいても、神は私のすべてを知っておられます。「思い煩い」も知っておられ、「傷ついた道」(罪の問題)も知っておられます。そして、知っておられるからこそ、神は導いて下さることに信頼しています。神が遍在されるということは、神の御手の及ばない所は存在しないということです。139篇の著者は「そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(10節)と告白します。神に知られているということは、神の影響力の下にあるということです。神が私を捕らえるという表現をしています。神が私を導くということにおいて、絶対的なのです。捕らえられるということは、逃れられないということであり、それを妨げるものがないということでもあります。神が私たちを知ることにおいて、導くことにおいて、場所は何の妨げにも、あるいは効果ももたらしません。神の遍在性を知ることは、場所によらない平安を与えます。
3.どこにおいても神を見出し得る
パウロは、アテネのアレオパゴスの説教の中でギリシャ人達に「もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:27)」と語ります。神が遍在されるということは、地上のどこにおいても神を見出し得るということです。しかし、この点において私たちは、空間における遍在性と、神の「高さ」を考えなければなりません。確かに、神はこの世界すべてに「満ちて」おられます。ですから、この世界の大小かかわらず、どのような地点においても神の支え無しに存在する場所はありません。すべての場所に、神のご支配がおよんでいます。しかし、「木の中」であるとか、「神殿の中」、「人間の中」すべてに神がおられると単純に言うならば、これは聖書の教えと反してきます。Ⅰ列王記8:27でソロモンは、自分の建てた壮麗な神殿はもちろん、天の天も神をお入れすることができないと証言しております。パウロもアレオパゴスの説教で同じことを言っております(使徒17:24)。また、人の手で作った像の中に存在するとなれば、すべての宗教は、同じ神を礼拝することになります。神は、霊なるお方ですから、そのような所にはお住みにならず、地上の場所や、物質を通して神を知ることはあり得ません。むしろ、それは罪であるというのが聖書の教えです。このような意味で、神は別次元の存在であります。エレミヤ23:23は「わたしは近くにいれば神なのか。――主の御告げ――遠くにいれば、神ではないのか。」と語ります。神は、遍在性を持たれながら、近くにおられたり、遠くにおられたりするのです。あるいは、「高い」ところにおられるとも、聖書は言っています。神は、全ての場所におられながら、はるか「高く」におられる方です。これを神の超越性という言葉で表現します。聖書の時代に「高く」というのは、空間的なイメージをしても充分とらえられるものでした。(もちろん、当時においても空間的に「高い」わけではありませんでしたが)人間は、決して宙に浮くことができなかったからです。しかし、今は、宇宙へ行くことの出来る時代です。空間的に「高い」ということと、神がとても「高い」方であられることが結びつきにくくなっています。しかし、このことは非常に大事な理解になります。どの場所においても、神はおられますが、どの場所においても神が「近く」におられると言うことは、必ずしもできません。むしろ、どの場所においても、神は非常に「高い」ところにおられる方です。
そして、イエス・キリストは神のあり方を捨てて、つまり「高い」ところから、私たちの人間のいる「低い」ところまで下って来て下さいました。ですから、このキリストを通して、私たちはどこにおいても神を知ることが出来、神の御霊がその人の内に住まれます。どの場所においても神がおられると同時に、どの場所においても、キリストを通してのみ人は神に近づくことができます。
詩篇139篇も、神に知られている幸いと、神のご計画を知り尽くすことのできない神の偉大さを両方述べています。神は、信者の心に住まわれると同時に、信者にとっても依然として遙か高くにおられる方です。ですから幸いなのです。人が近づくことも、知ることもできないような、遙かに偉大で、遙か高くにおられるお方が、あらゆる場所においてともにおられるからです。
神の超越性を覚えるときに、神の遍在性の持つ真の意味、真の幸いを知ることが出来ます。神が私たちを知ることにおいて、導くことにおいて、場所は何の妨げにも、あるいは効果ももたらしません。