金沢聖書バプテスト教会

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神の本性と信仰生活

全知なる神

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 今回は、神の全知性について学びます。この全知性と私たちの信仰について、実際に神への祈りという関係で表されているのが詩篇139篇です。今日は、詩篇139篇を見ながら、神の全知性が私たちの信仰とどう関わるかを学んでいきます。

1.神の全知性とは

 神の全知性とは、神がありとあらゆる知識を持っておられるということです。これは、神の無限性とも関連しています。無限性の一つとして考えることもできます。永遠性について言えば、神は過去において、現在において、未来において神は「現在」として、そこにすでに存在しておられるのです。ですから、すべての時代の出来事について、正確に知っておられます。それは、予測でも、伝え聞いた情報でもありません。ご自身が見、ご自身で聞いた、正確な知識です。これは、遍在性についても言えます。神は、あらゆる場所に存在されます。ですから、すべての場所において現在何が起きているかを、ご自身の経験として正確に見聞きして知ることができます。これらのことから、神はあらゆる時間、あらゆる場所についての出来事を、正確に知っておられることがわかります。それだけでなく、神はそのことをご計画され、実行に移された方でもあります。ですから、その出来事を知っておられるだけでなく、その出来事の目的と、意味もご存知であります。そして、神が知っておられる「場所」は、この地上だけでなく、霊的な世界にも及びます。「天」と言われるところ、よみ、地獄についても知っておられます(139:8)。神は、それらを創造され、また支配しておられるからです。ここでは、単にそこに存在される事とは区別される必要があります。神は、天におられますが、地獄にはおられないからです。(もし、神が地獄におられるとするならば、神ご自身が刑罰を受けることになります。それはあり得ません。神には一点の罪もないからです。しかし、神は地獄を造り、維持し、それによって罰をお与えになっているという点で、神は地獄を支配下におかれ、その中の出来事を知っておられます。)さらに、神は、世界を創造する前からご存在された方でもあります。つまり、時間も、空間も始まる前からご存在されたお方です。ですから、その知識においても無限であります。私たちは、時間と空間を超えた時点で、その知識がどのようなものかも知ることができなくなります。人間の知性でそれを理解することはできませんが、神は知っておられます。また、神は何が最善であるかを、正確に知っておられます。
 そして神は、人の内側を知っておられます。その人自身も気づかないこと、忘れていることさえも知っておられます。神ご自身が心を持ったお方であり、心を造られた方だからです。また、神ご自身についてもよく知っておられます。これは当たり前のように思いますが、私たちが神を「知る」上で非常に重要な点です。それは、神は信じる者の中に、神性を完全に持ったお方、この全知性を持つお方である、聖霊を住まわせてくださったからです。イエス・キリストを信じた者は、まだ知らないことばかりでありますが、すべてを知っておられる方を、自分の中にいただいたのです。クリスチャンが神のお言葉である聖書を読むとき、神のこころを深みまでしっておられる聖霊が、聖書を通して、本来人が知ることのできない神ご自身を知るように助けられるのです。(Ⅰコリント2:9~16)

2.神の全知性は「私のすべてを知っておられる」

 まず、すべての人にとって、神の全知性がまずもって関わってくるのは、神が私のすべてを知っておられるということです。詩篇139篇の著者は、これをいくつかの面から言い表しています。一つは、場所においてです。139篇の著者は、「あなたの御霊から離れてどこへ行けましょう」と言っています。天に行っても、よみに行っても、海のはてに行っても、そこに神がおられると述べています。地上は言うに及ばず、見えない世界においても、神は人がどこに行っても、そこにおられる、つまり知られていると述べるのです。であるならば、クリスチャンかそうでないか、善人か悪人か、どの国の人かを問わず、すべての人間が存在するところ、そこに神がおられ、神はその人を知っておられるということになります。第二に、隠れたところはないと述べます。「あなたにとっては、やみも暗くなく、夜は光のように明るいのです」(12節)とあります。現代は、夜でも結構明るいですが、当時、闇と言えば全く見えなかったはずです。もっとも隠れるのに適した場所でさえ、神の前には隠れていないと述べます。これは人の隠れた面、知られたくない面、知って欲しいけれども知られない面も含め、神の御前にはすべて知られていることを示しています。そして、第三には私の人生を知っておられます。13~16節には、人の目には見えない胎児の時から知られており、そして、同時にまだ起きていない人生のすべてまで知られていることを記しています。
 そのことが意味することは、私たちの罪や弱さについて、すべて知っておられるということです。そして、その罪について神ご自身が証人であるということです。これは、新約聖書を読むときに、私たちの心の中で思う事柄についても言及されており、むしろ罪の行いは、内なる罪の結果として表れてくることを知ります。その罪は、神から離れた結果であり、神からの離反こそ、罪の本質です)。神の御前に知られない(罪と罪の実)はありません。「主の御目は、どこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」(箴言15:3)。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけだされています。」(ヘブル4:13)。
 しかし、イエス・キリストは、神が知っておられる所の、全ての罪の罰を十字架で負うために受肉して下さいました。この十字架の贖いを受けた者にとっては、神の全知性はなぐさめです。神の御前に罪が知られていることを思うとき、そのためにイエス・キリストが十字架に掛かって下さったことを覚えます。そして、キリストの故にそれは負い目ではなくなります。むしろ、私たちの生い立ち、弱さをすべて知ってくださる方が、私たちを導いてくださることを知るとき、そこには平安があります。神は罪人をゲヘナに入れる権威を持つと同時に、その権威を持ったお方が、雀一羽にも目を留められ、私たちの髪の毛さえも数えられている、つまり知り尽くしておられる。だから恐れる必要はないとイエス・キリストは教えて下さいました。(マタイ10:26~31)

3.神の全知性は信頼の根拠

 139篇の著者は、これらの全知性を踏まえて、23~24節の祈りをしています。「私を探り、私の心を知ってください」と祈ります。この著者が「心を知ってください」と祈るとき、二つの面を言っています。一つは「思い煩い」であり、もう一つは「傷ついた道」です。神は、私たちの思い煩いをも知ってくださいます。そして、その思い煩いは、私たちの弱さや罪に由来するものが多くあります。それで139篇の著者は「私のうちに傷ついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈ります。傷ついた道とは、本来歩むべき道からそれた部分であります。この道が傷ついているがゆえに思い煩っているかも知れません。この道が傷ついているならば、とこしえの道に行くことはできません。神だけが、完全な道をご存じです。この点で、神の全知性は、信頼の根拠となります。一つは、神が私たちの道の、「どこが」傷ついているかを知ってくださるからです。もう一つは、神が完全な道を知っておられ、傷ついた道から、完全な道に立ち帰るために、どのような導きが必要かもしっておられるからです。ですから、この139篇の著者は、1~18節まで長い記事を割いて神の全知性を讃えつつ、ここでこのように祈るのです。全知なる神であるからこそ、罪で傷だらけの私たちの道を修復し、救うことがおできになります。

4.神の全知性は信仰の基盤

 神の全知性と、人の知識は、もちろん天と地ほどに離れたものでありますが、未来の知識について顕著です。人は、未来を予測することは、あるいはできるかもしれませんが、未来の「知識」と言ったときには、皆無と言わなければなりません。そのため、神が語られるお言葉は、未来についての知識のない私たち人間にとっては、しばしば理解しがたいものであります。そこに信仰があります。とくに、イエス様が十字架にかかられる直前に語られたイエス様のお言葉は特徴的でした。ロバの子をほどいて来なさいと弟子たちに命じられたとき、イエス様は「『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」と言われました(マタイ21:1~4他)。イエス様が言われたとおりに言って、どんな反応が返ってくるかは、イエス様のお言葉の他には、何の保証もありません。しかし、イエス様は、ロバの持ち主に対する知識も、未来についての知識も持っておられるお方ですから、このように言い得たのです。そして、弟子たちが、イエス様が言われたとおりにしたとき、イエス様のお言葉が真実であったことを知りました。そして、それはさらにイエス様への信頼を深めさせたことでしょう。イエス様が過ぎ越しの食事の部屋を指示されたときもそうでした(マタイ26:17~19他)。そのように、聖書のお言葉は、全知性を持った神のお言葉であるという側面を持っています。ですから未来についての知識、神の国についての知識をもたない私たちは、神の全知性に信頼して、聖書のお言葉を受け止める必要があります。そして、そのお言葉に従うときに、神が実際にそのようなお方であることを知り、私たちは神と近くされます。これは、祈りについても言えます。4節で「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」と言います。これは、イエス様が山上の垂訓で語られたことにも似ています。神は、私たちの心の内と、未来における祈りを知っておられるのです。ですから、神は時間を超えて私たちの祈りのために備えられ、私たちの祈りが応えられるとき、神のご主権と、ご摂理を覚え、神を褒め讃えるのです。また、私たちの祈りは、神に知られているからこそ、安心して、大胆に祈ることができるのでもあります。

5、その他全知性についての御言葉

*神の全知とは、凡てのことを知り、完全無欠の知識を所有されていることをいう。

  • ・神の知識を人間の知識によって測ることは出来ない=ヨブ11章7,8、37章16、
    イザヤ40章28、詩147篇5、ロマ11章33
  • ・神は人の思いをすべて知られる=ヨハネ第一3章20、
  • ・人間とその救いにかかかる神の秘められた目的と決定とを、人間は完全に理解することができない=ロマ11章33、箴15章3、箴言5章21
  • ・神は全自然界の完全な知識を所有されている=創世記15章、イザヤ40章26、27マタイ10章29
  • ・神は全人類の生涯についての完全な知識を所有されている=箴5章21、出3章7
    マタイ10章30、出エジプト3章19、
  • ・神は全人類史の完全な知識を所有されている=使徒行伝15章18
  • ・神は、永遠から永遠まで、生起する一切のことを知っておられる=出3章7
     マタイ10章30、出3章19、イザヤ48章18
  • ・神は、永遠から永遠まで、生起する一切のことを知っておられる=イザヤ48章5~8、イザヤ46章9、11
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