御言葉メール781
2015年5月30日(記:斎藤文子)
「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り・・・心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」(第1サムエル7の3)
キリスト者は心のよりどころは、何はさておき、神だと思っています。事実、そうです。しかし、自分でそう思い込んでいても、実は神以外のものを心のよりどころとしていた、ということが多くあります。
私自身、神以外のものを拠り所にしている、ということを気付かされ続けたクリスチャン生活だったような気がします。ある時は健康であったり、ある時はお金であったりする。預言者サムエルの時代、イスラエルはペリシテとの戦争で、神の臨在のしるしである「契約の箱」を奪われます。
その時、祭司ピネハスの妻は「栄光がイスラエルから去った」という名前を子どもにつけたほどの絶望に陥りました。夫も戦死し舅も死んだのです。彼女の絶望に代表される様に、イスラエルにとって、契約の箱が奪われることは、イスラエルの契約の神ヤハゥエが奪われる、というほどの意味をもっていました。契約の箱さえあれば安心だと思っていた。
しかし、そうではなかった。契約の箱に現わされる神ご自身に目を向け、神に叫び、悔い改めることこそ必要なことでした。私達の心の拠り所が、本当に神にあるかどうかを吟味し、主が私達の心の内にあるものを明らかにして下さいます様に。