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精神障がい者について

5.神は家族共同体の救いをめざす

家族共同体の危機とその癒し  聖書と精神医療よりコメントは受け付けていません。

5.神は家族共同体の救いをめざす


[聖書と精神医療2000年夏号より抜粋]





 著者はクリスチャン医師として家族の危機を乗り越えることについて、五つほど上げて説明しております。以下その内容を抜粋してお知らせいたします。

【機能不全家族と言う言葉がある。父や母が子を責め、夫婦同士が責任を転嫁しあったり、お互いに共依存状態に陥ったりする。又、親子間の基本的信頼関係が失われてしまう。家族の中に、非行や心の病気、依存症などと言った既往症(キオウショウ)を持つ人が存在することも、こうした機能不全家族の特徴の一つである。家族は一つのシステムだ。誰か一人の”病理“を取り上げ、悪者を作り上げ、その人を批難したり排除したからといって、究極的な解釈には至らない。家族危機を乗り越える為には、家族共同体全体が救済されると言う包括的、統合的、全体的な視点が必要とされる。このような考え方を指示する聖書的背景について触れておきたい。



 この点について示唆的なのは、まず第一に、アブラハムがソドムの救いについて神との間で交わした問答である。勿論ここでは、イスラエル民族全体の救済という事が問題になっているが、民族や、国家、社会を構成する最小単位は家族であるから、家族共同体の救済というものを考える際にも、次の記事は大変参考になる。主は、「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」(創十八:二〇)と言われた。これに対してアブラハムは、「もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」(創十八:二四)と問う。これに対して主は「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(創十八:二六)と答えられる。アブラハムは、神との問答を繰り返す中で、「正しい者」の数を段々と切り下げてゆき、「もしやそこに十人見つかるかもしれません。」と主に迫る。そうすると、主は、「滅ぼすまい。その十人のために。」(創十八:三二)と述べられる。つまり、例え、どんなに少数であっても、ソドムの為に、とりなす正しい者がいれば、ソドムの町は滅ぼさないと神は言われる。



 この箇所は、私たちに個と共同体の中の“悪者“を探し出したり、作り出すのではなく、家族構成員の健康な側面に焦点を当てることなのである。


4.聖書と精神医療2000年夏号より

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4.聖書と精神医療2000年夏号より





 

□家族危機の現実と聖書  旧約聖書を読むと親子関係や夫婦関係について考えさせられる記事が少なくない。その中の二、三、の例をあげてみよう。





 祭司エリの息子は、ならず者で主を知らなかった(1サム二章十二節)

 サムエルの二人の息子ヨエルとアビヤも父の道を歩まず不正な利益を求め裁きを曲げた(1サム八章十三節)。

 モーセの兄アロンの2人の息子たちも、神の御心を行わず、父を悲しませた(レビ十章一〜二)



 この他にもダビデは、息子アブサロムに反逆され、命を狙われた。またヨブの妻は、ヨブが財産を失い、子どもを失い、病気にかかった時、神を呪って死になさいと述べている。祭司エリやサムエルやアロンやダビデやヨブは、旧約聖書の中でも神に選ばれたリーダーであった。この世の一般的常識に従えば、その子供や妻は、模範的な人物であらねばならないはずだ。しかし何故イスラエルの偉大なリーダーの身内にこのような人が現れたのか。この問題に対する答えを解く鍵はどこにあるのか。これまでの家族精神医学や家族心理学の治療理論によれば、治療者は家族構成員の中の一人が心の病にかかったり、反社会的行動を引き起こしたりした場合、周囲の人の考え方や思考方法に原因があるとされ、その考え方を修正する事に力を注いできた。つまり、家族の中から“悪者”が選ばれ、その人に焦点を絞って勧告や忠告を行うと言う形で“治療”が勧められた。このような勧善懲悪的な発想によると、例えば、子どもや妻が心の病にかかったり、反社会的行動に走ったりするのは、「親」とりわけ家族の代表者である父や妻がいけなかったからだと言う論理になる。このように考えてくると、祭司エリもサムエルもアロンもダビデもヨブも“欠陥を持った”父親という事になる。その他に、例えば神に選らばれた親でも、人間として不完全な存在であって神は、傲慢にならないように教育的配慮からこのような不肖の息子や妻を与えられたと言う見方である。



 前者は、因果論敵思考に基づく家族理論であり、後者は、目的論的思考による家族病理論だと思う。我々は、家族の病理を考える場合、後者の立場をとる。神は、このような家族の悲劇を通して、人類の罪がどんなに深く大きく重いものであるか、それによって父なる神は、どんなに心を痛めておられるか、また、神と人類との距離が如何に遠いものであるか、更に、神と人類のとりなしがどんなに大切であるかを悟らせる為に、こうした試練を与えられたと我々は考える。おそらくこうした旧約の偉人たちは、身内の者(子や妻)の罪ゆえに大きく傷ついたであろう。また、子どもや妻も自らの罪に深く傷つき苦しんだに違いない。」(平山正実著より)



 しかし私は、安易に目的論的理解においても納得してしまってよいのだろうかと思うのです。一つは、このような解釈が本当に家族を慰め解決への一歩となるのだろうかと考えます。二つ目は、神の御心を自分流に勝手に解釈していないだろうかと言う事です。単に目的論的会社では限界があると考える。更に、警告や戒め、訓戒としての位置付けしか障がい者には与えられないと言う、否定的な存在でしかないのかと言う事である。しかし、私も“悪者探し”には異論を唱える者です。

3.スピリチュアルケアの重要性

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3.スピリチュアルケアの重要性





 赦しのない因果論的発想に基づく援助は、病んでいる者とその家族を更に苦しめ、傷つけることになります。そこで平山氏は、これまでの原因探しの支援方法ではなく、スピリチュアルケアと言うこれまでとは異なる方法を導入することを提案します。平山氏は次のように説明いたします。「このような治療方法(スピリチュアルケア)においては家族の中の“悪者探し”をするのではなく、家族の中に降りかかってきた災禍の目的や意味について、超越的・信仰的な観点から考え直そうとする治療方針を立てる中で、このような治療方法を家族の一人一人に対して試みようとする時、身体的、精神的、社会的援助を行う際の理論的根拠である因果論的思考を、目的論的意味論的思考へと変える必要があり、その時援助者は、基本的なパラダイム(認識のための枠組み)の変換を迫られる]]事だと提案します。著者が、家族療法の中にこのようなスピリチュアルケアの導入を考えた理由を二つ挙げます。



 第一は、[[第四回日本伝道会議共生委員会アンケート調査報告書」(中島秀一委員長、二千年六月二九日)が示す結果によります。ここで行われたアンケート結果によると(一九九九年三月郵送により千九百教会に配布、回収三九三教会、回収率二一.三%)、過去五年間に九〇%の教会が障害者と出会い、受け入れている事実があるそうです。その障害者の中で最も教会出席率が高いのが、精神障がい者(六七%)だそうです。そして教会が最後の支援者となって、平山氏のところに教会から紹介されてくる場合が実に多いそうです。患者の家族は、いろいろな施設や病院を訪ね歩くのですが、どれも納得がいかず、最後に教会を尋ね平山氏の病院へ来られる場合が多いそうです。



 第二は、2000年5月に起こった西武バスジャック事件だそうです。この少年について三人の精神科医がそれぞれに違った判断をしています。一人は、精神分裂病(統合失調症)だからすぐに、そして長期の入院が必要であるとし、もう一人の直接あって簡易鑑定した医師は、短期間では何も判断できないとしています。また別の精神科医で評論家は、全く正常であって、入院させるべきではないと主張したのでした。



 このように最近では、精神鑑定によって診断を下しにくいケースが実に多く出てきているというのです。それは、今までの因果論的な思考が通用しないということだと言います。この犯人の場合、日本精神病院協会の仙波恒男会長によれば、精神病ではなく、行為障害であって精神医療の対象からはずすべきだとしています。



 このように多くの判断の違いがある中で、本人とその家族は、心の専門家である精神科医やケースワーカー、看護士、保健士、臨床心理士、教師などをさしおいて、あるいはこうした専門家の対応では問題解決せず、多くの精神障がい者が教会の門を叩くという思い現実があるので、著者たちは、このような事例に対して、スピリチュアルケアが重要であると強調しておられるのです。

2.家族の癒しをどうとらえるか

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2.家族の癒しをどうとらえるか



 家族の癒しというものを考えるにあたって、癒しの目的である健康とはどのような状態を指すのかを考えてみたい。



 世界保健機構(WHO)によれば、健康とは、身体的、精神的、社会的に完全に良い状態であり、常に病気や虚弱がないことではないと定義さえしている。このことは健康が維持されるためには、身体的、精神的、社会的な援助が必要であることを意味している。



 身体的援助とは、具体的に言うと、痛みや、食欲不振、嘔吐、謳気、便秘、下痢、呼吸困難、排尿困難、尿失禁、痒みなど様々な身体的苦痛に対して、適切な処置がとられることを指す。 精神的とは、不安、恐怖、うつ状態、幻覚、妄想、不眠、意識障害など、精神的苦痛に対して対応することである。 社会的援助とは、患者の経済的問題や、家庭、学校、職場などに生じた様々な葛藤に対して、いろいろな問題解決の方法を呈示する事である。

 つまりWHOの定義によれば、健康とは患者に対して、このような身体的、精神的、社会的ニード(必要性)に答えてゆくだけでなくスピリチュアル・ニードにも配慮してゆくべきであると言い始めている。



 スピリットは、[自分を超越したもの」と自分の存在の根底をなすものとの二つの要素を含んで用いられるといわれる。



 前者は、聖なるものに調和する自覚が生まれてくること、つまり、神が人間の罪を赦し、愛していたもうと言う揺るぎない和解の確信を与えられることであり、後者は、自分の人生が意味と目的のあるものであるという感じが与えられることである。以上のことから明らかなように、人間が健康であるためには、身体的、精神的、社会的援助(ケア)が必要であるだけでなく、スピリチュアルケアが大切であって、これらの諸々の援助が、全体的、包括的になされることによってはじめて真の意味での健康が守られるのである。



 ある原因があって、その結果様々な不健康な状態が生じたのであるから、その原因を除去しなければならないとする因果論的発想に基づいて行われる。然るに、このような考え方を家族療法に応用しようとすると、家族構成員の誰かを悪者とみなし、その人物の責任を追及しなければならなくなる。大抵は、母親が最初にやり玉に挙げられる。母親はそうでなくても、自分の育て方が悪かったのではないかと罪責的になっているのに、こうした因果論的発想に基づく援助者の対応によって、一層傷つくことになる。



 私は、いろいろな苦しみの中で、時には、原因を追求する必要が必要な場合があることを認めます。しかしその原因に対して、必ず神の赦し(悔い改める時たとえどのような罪=原因であろうと)があることを宣言しなければなりません。まず自分のすべての罪が赦されていることを明確に自覚できることは、自己を確立し認識する上で大きな力となります。この救いと赦しなくして、後者の自分の存在の根底をなすものを確立することはできないのです。また、関る全ての人が、神の赦しの中におかれていることを互いに確認し合い、互いを受け入れ合う事を自覚する事が、何よりも大切な事と考えます。

1.家族内での悪者探しについての問題

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1.家族内での悪者探しについての問題



 「現代の日本では、家族機能が崩壊しつつあるという指摘が多い。事実、不登校者数や、児童虐待数の増加、十代女子の人工妊娠中絶数の増加、家族内暴力の増加、青少年の凶悪犯罪の増加、夫婦間暴力や育児ノイローゼ患者の増加、中高年の離婚、壮年男子のリストラや過労による自殺者の増加、老人(今日ではホームレス者への暴力、幼児への性的ないたずら、なども上げられる)虐待の増加、などといった事実が毎日のように新聞で報道されている。



 そして、その多くが、家庭内に原因があると論評する識者が多い。そして、「機能不全家族」「仮面夫婦」「家庭内離婚」「アダルトチュルドレン(よい子であり続ける子供たち)」といったキーワードが市民権を獲得しつつある。こうした病理的な家族がどうして出来上がったのか、その原因探しが、これまた有識者の間ではじまっている。曰く、子どもには過剰な期待を持ち、教育に熱心な親が無理に勉強ばかりさせるからだ。」「父親が仕事に忙しく、子どもと十分に接する時間がなかったからだ」「母親が未成熟で過保護、過干渉だった」「夫婦の対話時間が少ない」「親の子どもに対する躾がなっていない」等等。



 確かにいわゆる、病理的な家族に対する識者のこうした批判は、それなりに説得力を持っている。しかし、家庭内のこうした、悪者探しの結果、血祭りに上がった親や子供たちが、今悲鳴を上げ始めている。これまで、教育者やカウンセラーや精神科医がこのような悪者探し、原因探し、によって問題解決できると考えてきた。しかし、本稿では、それだけでよいのかと問い掛けたい。我々はかつて、心の癒しの為には、因果論から目的論へ思考の転換を図る必要があるという事を指摘した事がある。やんだ家族を癒すためには、因果論とは別の発想が必要なのではないか。従来の家族療法でよく用いられる家族の中に悪者を探し回る因果論的な味方とは異なったパラダイム(認識の為の枠組み)を導入する事によって病んだ家族を癒す可能性を模索する事が、本稿の目的である。」

精神障がい者について少しでも理解していただくために

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精神障害者について

少しでも理解していただくために

 これからどれくらい続けられるか分かりませんが、精神障碍者に対する接し方、特に精神分裂病(この名称が、統合調整失調症と変更されるようです)についての理解を深める材料としていただけるなら嬉しく思います。



 特に私の場合娘とのかかわりからのものがほとんどです。ですから、個々において多少異なるケースが出てくると思われます。ですので、比較的原則的なことをお伝えしたいと思います。更に、精神科医でもないし、精神病に対する専門のケア・マネージャーでもないので、治療面において詳しくは論じることはできないでしょう。しかし、実際の関り方、また精神分裂病についての現段階ではっきりとしている領域についてお話しようと思います。



 この複雑化し、すべてにおいて不信だらけの時代に、教会を最後の期待の場所として訪れる精神病という障碍を持った人たちが訪れる機会が益々多くなると考えられます。また、この精神病という障碍をもった方たちに接するその接し方(SST=社会生活技能訓練)は、どのような人に対しても持たなければならない技術と思うのです。


 精神障碍をになっている人たちは、人の心の動き、思い、態度にとても敏感なのです。なぜならば、精神障碍とは、人との関係において表れる障碍だといえるからです。



 ではまずは、私の多く失敗してきた接し方から学んだところをお話することからはじめましょう。

岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表7

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表7





 次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。



 1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。



 2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。



 3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。



 4、将来についての不安である。親亡き後の事

 

前回あげた家族の戸惑いについてを一つ一つみていきましょう。今回は、後半です。


6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出して、伝える事に非常な困難を覚える。



  この世の哲学や、教えの原則は、結果が全てと言うところがあります。出た結果によって認めるかどうか、従うかどうかを決めています。その時注意しなければならないのは、良い結果とは自分にとって、便利で都合がよく、社会に必要と認められるもののことでしかないということです。その代表的なものに、テレビ番組やコマーシャル、雑誌などにおいて頻繁に紹介されると、それが良いものとなってしまうということがあります。



 その結果、社会や人の評価において芳しくないもの、目立たないものは無用なもの、意味のないものとして排除されていき、忘れ去られ、ついには捨てられていきます。このように自分や社会に役立ち評価の高いものは、良いものであると言うだけでなく善ともなります。逆に自分の都合を含めた社会的評価の低いものや自分にとって都合の悪いものは悪となり、罪であるとの判断さえ下されてしまいがちです。



 しかし、神様の評価基準は全く違います。神様の御子が、この世に人となって来られた時の姿はまったく逆でした。イザヤは語ります。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(53章2〜3節)と。



 神様の価値基準は、この世に生きている私たちとは全く異なっています。私たちクリスチャンは、このキリストを模範とする生き方をする者のはずです。つまり、自分の都合や便利さ、社会にとっての有能さで良いと判断するのでは無いという事です。私たちクリスチャンは、神の良しとされるところを自分も良いものと評価し、受け入れるのです。その結果を社会がどう評価しようと、それは神に委ねるという姿勢が大切です。世の中での評価は、人や場所や利害関係によって変化するものです。それらに振り回されない歩みこそ価値ある歩みです。キリスト者は、その様な歩みが求められるのではないでしょうか。



 パウロは、この生き方が非現実的だとは決して言いませんでした。私たちクリスチャンが、福音によって新しく生まれ変わっているならば可能だと言うのです。何故なら神様が、私たちをご自身の証しの為に選ばれたのは、私たちが弱かったからだと言っています「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(Ⅰコリ1章17節)。パウロは、ここで神は強い者を通して福音の証しをされなかったと言うのです。



 またパウロは、これが教会においてどのように実践されているかを示して次のように言います。



 「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」(ガラ4章13〜14節)と。



 パウロが教会で受け入れられたのは、立派で頼りがいがあり、世において高い評価を受けていたからではないと言っております。実に教会は、パウロの外見によって、パウロの語る福音を受け入れたわけではなかったのです。



 以上のことから私たちは、人を受け入れたり、価値ある尊いものと考える基準を、便利性や見栄えの有る無しで決めてはいけない事が分かります。私たちは、どのような時でも、どこにおいてもこの立場に立ちたいものです。そして救われたクリスチャンは、従う事が出来た時、本当に嬉しく感謝するのです。そしてこれは、精神障がい者を家族に抱える者にとって大きな慰めであり、希望となるものなのです。



7、年々娘の病状が悪くなって行くことに対しての不安感を感じないわけにはいかない。そのために、娘の招来に対してヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる。



8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、健康な人々が自分の命をおろそかにしたり、その健康や地位や知識を犯罪や、自分の為だけにしか用いようとしていない、その我が儘さに怒りが湧くのです。しかもそれらの人々が少しも苦しむことなく人生を謳歌しているかのように写り、人生とは何と不公平にできているのだろうかと嘆いてしまうのです。



 そのような中で娘は家からほとんど出る事ができず、自分は生きていても価値がないと嘆くのです。彼女ほど人のことを考え、自分に対して謙っているのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのかと、その身の上を嘆いた事もありました。



 また、その嘆きは、牧師である私自身の心の叫びでもありました。伝道者として人々の怒り、嘆きや悩みの捌け口となって、しずかに誠実に接しようとしても、なかなか理解する友がなく、孤独と重荷とで押しつぶされそうになっていきました。それと同時に私の内に呟きの声が日増しに大きくなって来ておりました。「これほどの労苦が何の意味を持つのだろうか」と。



 そのような悶々とした日々を過ごしている時、私は詩篇73篇を思い起こしたのです。この詩篇の2〜16節は、その時の私の心そのものでした。



「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。・・ ・確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。」



 私の中にあったのは、恨みや嫉妬ではなくむしろ報われない労苦がいつまで続くのであろうかという虚無感であったように思います。



 聖書は、続いて(17~27節)語ります。一見、誠実に遜って生きている弱いと思われる者が実は、本当に幸いな人生を歩んでいると知らされました。繁栄し、豊かで最も安全に過ごしていると見えた彼らこそが、最も危うい状態にあるかを教えていただいたのです。



「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。・・・目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。」



 そして私たち家族は、主にある信仰の友と共に過ごせる事が、どれ程の慰めに満ちた神の恵みであるかを知ったのです。そこで詩篇の作者と共に次のように讃美させていただくのです。



「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」(28節)

岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表6

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表6




 次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。



 1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。



 2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。



 3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。



 4、将来についての不安である。親亡き後の事

 

前回あげた家族の戸惑いについてを一つ一つみていきましょう。今回は、前半の4つです。

1、現実を受け入れる事に困難があります。



2、自分の働きの妨げと考えてしまうのです。



3、親である自分の分身との思いからか精神障がいを持った子どもを、受け入れることにためらいを感じてしまう。



 どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いがありました。特に私は、牧師家族は、あらゆる面で信仰者家族の模範とならなければならないと思っておりました。そのような願いの時に、次から次と子どもの事で大きな試練(当時は「挫折」と考えておりました)に見舞われました。そこで自分が伝道者として召されていると言う確信について、疑う思いがでてきました。何故なら、娘だけではなく、下の子どもまでが不登校状態になっていたからです。



  私の心の中には、まったく証しにならないという焦りが湧き上がってきました。私の理想としていた牧師家庭の状態から遥かにかけ離れたものになっていったのです。そのような時に私たち夫婦は、経験や体験によらないで、聖書のお言葉の約束に立つ事で慰めを頂きました。マタイ11:25〜29「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」



  私たち夫婦は、この世において幸福と見られている価値観や基準に従っていないことをあらためて確認した時に本当に慰めを頂きました。神と神の子イエス様に知られている事ことこそ神の業であり、それが最高に幸いである事を知らされたのでした。これは、本当に魂に安らぎを覚える時でした。



  自分の娘が精神障がい者であることを公にする事について大きなためらいと心の葛藤があり、信仰が試されました。私にとってイエス様が言われたルカ福音書の言葉は、大変大きな試練でした。「彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」(9章48節)



4、将来についての不安です。具体的には、親亡き後の娘の生活についてです。年齢順を考えますと、親よりも先に娘が召される事は考えにくいです。また、自分よりも先に天に召してくださいと死を願うことの悲しさと罪に深く自分勝手さを思うのです。



  実際に多くの精神病棟には、生活保護を受けて長期入院生活をしている人が実に多くおります。私たち夫婦は、毎日のように入院中の娘を見舞いました。そのような中である看護士の言葉が印象的でした。「毎日面会するほどに大切にされている人の世話をできる事は嬉しいことです。」と言われた事です。素敵な言葉と思いました。しかし別の視点から考えるならば、ほとんど面会される事のない患者に対しては、自然と看護意欲が薄くなってゆくという事を意味しているのです。



 皆が大切にするものを他の人も大切にするのは当然かもしれません。ですから親亡き後は、誰がこの娘を見舞ってくれるのだろうか、と思い悩むのです。皆、自分たちの家族があり、生活があります。それで、精一杯なのですから。(続く)


岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表5

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表5





 この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先週に引き続いて特に娘の言動から整理します。



 6、薬によって人格が変えられるような不安とどの自分が本当の自分なのかわからなくなる不安。



 このような不安は、本当に深刻なものといえるでしょう。私たち人間にとっては、いつも自分とは何ものであって、何ものでないか、これが大切な問いかけではないでしょうか。これは、薬によってなされる問いかけではなく、人間としていつも問い掛けなければならないものです。



 そして私たちは、福音の持つ真実なメッセージに自分の位置を見出す事が出来たのではないでしょうか。わたしたちは神に造られて、神の栄光を現し、神を喜ぶ者とされた存在です。それ以上では決してありません。つまり決して人間は神には成れない存在であるということです。又同時に人間は、人間以下のものでもありません。他の被造物の中でもっとも高価で価値あるものです。神はその様に見て下さっているのです。



(詩8篇6)「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」と詩篇の作者は語ります。



 ですから服薬をしていようがいまいが、そのような事によって私たちの価値が決まるわけでもありません。また私たちの価値は、人格的にどのような状態にあるかではありません。私たちの価値は主なる神が、そう見ていて下さることにその根拠を置いているのです。



 ですから、自分でどのように自分のことを考えるかによって自分を計るのでもはなく、又人がどのように評価して見てくれるかによってでもなく、神がどう見ていてくださるかの視点に立って自分を見ることが大切なのです。



 教会とはまさにそのような視点に立っているクリスチャンたちの集まりなのではないでしょうか。キリストにあって生きる者となったとは、古き人を脱ぎ捨てて、新しくキリストを着た者です。その服薬によって人が変わったわけでは、決してありません。同じ生きるならばどのように生きるかを祈りの中で、主体的に選択していかなければなりません。服薬を続ける事によって神に信頼し、兄弟姉妹の交わりと、社会的責任を果たして行くのが楽であるならばそれでよいではありませんか。私たちは、苦行や厳しい修練に救いがないことを知っているのですから。



 次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。



 1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。



 2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。



 3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。



 4、将来についての不安である。親亡き後の事



 5、親自身が原因探しをして、育て方の問題はなかったかと戸惑い、苦しむことが多い。



 6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出すして、伝える事に非常に困難を覚える。



 7、年々症状が悪くなってくる事に対してなかなか明日への具体的希望を見ることが出来ない。つまり将来のヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる事が多くある。



 8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、娘が不憫に思えたりすることの葛藤がある。

 

以上が、私の祈りの中で抱えていたものです。これらをまた一つ一つ、聖書から考えたいのです。


岡崎での野の花セミナー4

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表4





 この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先回に引き続いて特に娘の言動から整理します。



 4、自分の苦しみや悲しみを理解してくれているかどうか不安である。



 娘は、度々「こんな地味な病気ではなく、もっと派手な障がいなり、病気の方がよかった。」といいます。その言葉の意図するところは、決して精神病を軽蔑しているのではありませんし、病気に優劣をつけているわけでもありません。精神病が、表にあらわれない病気である(それに対して、ケガや他の病気ですと原因がはっきりしていますし、症状も発熱や嘔吐、下痢などの症状が見える事が多い)ので、仮病と思われていないだろうか、怠け者であると思われてはいないだろうかとの、不安からの言葉なのです。また、精神病の症状は、健康な人と共通する気持ちを持っていますので、ほとんどの人が、「心のもち方の問題ですよ。」とか「気持ちのもち方しだいで、誰でも思うところだから、そのような弱い気持ちに負けてしまってはダメだ、しっかりしなさい。」と叱咤激励される経験から出た言葉です。



 特に妄想(被害妄想・関連妄想・伝達妄想など)や、幻覚(幻聴・幻視など)は、本人の意志や思いなどの心の状態とは関係なく現れてきます。気持ちの持ち方一つと言われてもどうにもならない現実としてあるのです。それを気持ちの持ち方しだいだといわれることによって、理解されていないと言う孤独感と疎外感を味わうのです。



 そのような娘の言葉に私は、次の御言葉の意味の深さ・重さを改めて示されています。



 Ⅰペテロ3:8「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」



 これはパウロもロマ人への手紙15章5〜6節で大切な勧めとしています。まずは、「心を一つに」する事です。心が一つでなければ、教会はペテロの言う意味で一つなのではありません。そしてこのことは、いくら私たちが互いに口で「心を一つに」していると強調しても、決して心が一つである保障とはなりません。しかし私たちは、心が一つであることの保証を持っています。それは、イエスが、私たちの全ての罪過を一人で担ってくださり、私たちに代わって一人で苦しみを受けられ、虐げられ、殺されたというメッセージを互いに信じているということによってです。つまり、同じキリストの心を信仰によって持っていることによる保証です。これが、私たちの心の一致の基礎です。ここに立つ時、私たちには精神障がい者の痛みや悲しみをまったく同じくすることはできないけれども、キリストの十字架の心を信仰によって共有しているので、一致しているといえることを伝えることができるのです。



 次に第二の勧めである「同情し合い」がきます。その理解があれば「兄弟愛」と「あわれみ深くあれ」との勧めが、正しく理解出来るのです。 これらをパウロは、ロマ人への手紙12:15〜16で「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」と語っています。これは、精神障がい者を理解する上でも私たちに強く迫り来る御言葉です。



 5、服薬について偏見をもたれていること、欠かす事の出来ない事を理解してもらえない事です。



 薬についての偏見があります。精神薬が、犯罪に使われたり、かつては中毒症状を起こす事が多かったことは事実です。また服薬する事は、薬への依存であるとして服薬を悪い事をしているとみられる事です。私たちは、誰でも依存しあって生きております。神お一人だけが自存されます。神以外誰でも依存し合っているのです。体に障害を負っている人は、ヘルパーに、車椅子に、杖、盲導犬そして介助犬に依存します。依存しているものによって、その人の価値や努力が評価されるわけではありません。精神障がい者にとってその障害のための補助が服薬なのです。骨折した人が松葉杖を用いるのと全く同じなのです。



 むしろ互いに助け合う事は主の命令ではないでしょうか。


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