4.聖書と精神医療2000年夏号より
□家族危機の現実と聖書 旧約聖書を読むと親子関係や夫婦関係について考えさせられる記事が少なくない。その中の二、三、の例をあげてみよう。
祭司エリの息子は、ならず者で主を知らなかった(1サム二章十二節)
サムエルの二人の息子ヨエルとアビヤも父の道を歩まず不正な利益を求め裁きを曲げた(1サム八章十三節)。
モーセの兄アロンの2人の息子たちも、神の御心を行わず、父を悲しませた(レビ十章一〜二)
この他にもダビデは、息子アブサロムに反逆され、命を狙われた。またヨブの妻は、ヨブが財産を失い、子どもを失い、病気にかかった時、神を呪って死になさいと述べている。祭司エリやサムエルやアロンやダビデやヨブは、旧約聖書の中でも神に選ばれたリーダーであった。この世の一般的常識に従えば、その子供や妻は、模範的な人物であらねばならないはずだ。しかし何故イスラエルの偉大なリーダーの身内にこのような人が現れたのか。この問題に対する答えを解く鍵はどこにあるのか。これまでの家族精神医学や家族心理学の治療理論によれば、治療者は家族構成員の中の一人が心の病にかかったり、反社会的行動を引き起こしたりした場合、周囲の人の考え方や思考方法に原因があるとされ、その考え方を修正する事に力を注いできた。つまり、家族の中から“悪者”が選ばれ、その人に焦点を絞って勧告や忠告を行うと言う形で“治療”が勧められた。このような勧善懲悪的な発想によると、例えば、子どもや妻が心の病にかかったり、反社会的行動に走ったりするのは、「親」とりわけ家族の代表者である父や妻がいけなかったからだと言う論理になる。このように考えてくると、祭司エリもサムエルもアロンもダビデもヨブも“欠陥を持った”父親という事になる。その他に、例えば神に選らばれた親でも、人間として不完全な存在であって神は、傲慢にならないように教育的配慮からこのような不肖の息子や妻を与えられたと言う見方である。
前者は、因果論敵思考に基づく家族理論であり、後者は、目的論的思考による家族病理論だと思う。我々は、家族の病理を考える場合、後者の立場をとる。神は、このような家族の悲劇を通して、人類の罪がどんなに深く大きく重いものであるか、それによって父なる神は、どんなに心を痛めておられるか、また、神と人類との距離が如何に遠いものであるか、更に、神と人類のとりなしがどんなに大切であるかを悟らせる為に、こうした試練を与えられたと我々は考える。おそらくこうした旧約の偉人たちは、身内の者(子や妻)の罪ゆえに大きく傷ついたであろう。また、子どもや妻も自らの罪に深く傷つき苦しんだに違いない。」(平山正実著より)
しかし私は、安易に目的論的理解においても納得してしまってよいのだろうかと思うのです。一つは、このような解釈が本当に家族を慰め解決への一歩となるのだろうかと考えます。二つ目は、神の御心を自分流に勝手に解釈していないだろうかと言う事です。単に目的論的会社では限界があると考える。更に、警告や戒め、訓戒としての位置付けしか障がい者には与えられないと言う、否定的な存在でしかないのかと言う事である。しかし、私も“悪者探し”には異論を唱える者です。