金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

理解を深めていただくために

5 心に悩みや苦しみを抱えている人とのかかわり方

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5 心に悩みや苦しみを

抱えている人との関り方




 ローマ人への手紙8章24〜27節

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

 実は私は、15年程前に統合失調症(精神分裂病)の御夫妻(二人共=病院で知りあって結婚された)と関ったのですが、今のような理解がなく、この御夫妻に対してとても辛くさせてしまいました。そして、教会から引き離してしまったのです。



 どのような誤りかというと、障碍者本人ではどうしょうもない、不安とそこから来る様々な妄想、そして自分が嫌われているのではないか、と言う疑い、その様な声を聞いて(自分の心の中にある迷い、自己否定など=例えば:迷惑を欠けている、いないほうがいいんだ、という心の思いの表れ)いる時にそれに理解を示し、牧師との間の橋渡しをしてくれる家族の支えがないために、不安と、疑いがとうとう教会の皆が嫌っている、だから牧師にも兄弟姉妹にも合えない、教会にいけない、と言う強い思いにいたらせてしまったようです。



 そのきっかけは本当になんでもないことでした(本人には重大な辛い事だった)。ある日、教会のみんなで旅行しました。その時、行きは私の運転する車で、帰りは私は、仕事があるために別の人の運転する車で帰っていただいたのです。ところがその車の中で、兄弟姉妹のちょっとした言葉(励ましと否定的な言葉)と、私が別の兄弟の運転する車に変えて欲しいと言った事で、私が迷惑がっている、嫌っていると思い込んでしまったのです。



 このような時に家族が、説明したり、私に連絡をすぐにしてくれたりして、説明で来る状態にあったならば良かったのです。その様なことの理解がなかったために、辛い思いをさせてしまいました。また、牧師が関った場合には、牧師と同じくらい信頼関係を築く事のできる重荷のある兄弟なり姉妹を紹介し、できるだけ接触しておく助け手が必要です。それでも牧師が、他の人にバトンタッチをすることは十分に注意しなければならないようです。



心に悩みや苦しみを抱えている人との関り方。



――統合失調症――

聞き上手になるための条件

1、 SST(social skills training)とは、

 ソーシャル・スキルズ・トレーニング(社会生活技能訓練)のことです。

統合失調症(精神分裂病)を患っている人も完備されたリハビリテーションのプログラムに参加する事により、いろいろな生活技能を修得することが出来るのです。これは、身体障害者が、様々なトレーニングを積むことによってより社会生活が主体的になってゆき、活動範囲がより広がって行くのと同じなのです。しかし、精神障碍者のリハビリではその方法がかなり違っています。それは、物理的障害(物理的バリアー)ではなく人間関係における障碍ですので、その社会技能訓練も人間関係訓練というのになります。

 その事が最も研究されている分野としての生活技能訓練(SST)なのです。

 かなりたくさんの人たちを対象にした研究が6つありまして、それらの研究の結果、精神分裂病を患っている人も生活技能訓練を習得でき、そして、習得後、最低1年間は生活技能訓練を保持できることがわかりました。

統合失調症を患っている本人の生活技能訓練はロールプレイ、モデリング、実際に何回も繰り返しての訓練(挨拶の仕方、聞き方、感じ方等々)などを行います。この方法は、指示集団精神療法より効果的なことがわかりました。

 リハビリテーション・プログラムで教わった生活技能はプログラム以外の場(実際生活で、例えば家庭、又は理解してくれている教会など)で使ってみる必要があります。これを「宿題」といいます。

 リハビリテーション・プログラムでいろいろと指導を受け、練習したことを実際の場で応用し、少しずつ生活技能を一般化し、慣れていくことです。リハビリテーションプログラムで練習している時はぎこちなくなったりしますが、思ったりしている事などを実際の生活の場でやって見て、その技能を少しずつ改良していく事などにより、一般化させるわけです。

 「宿題」の場は、最初は一番安全な場である家庭で行われ、慣れたらその次は支持的で信用できる親戚の人たち(現状は親戚だからこそ隠す、と言うこともあります。ですから教会が最適な場所と言う事になります。教会は、実社会と病院、家族との中間的働きを求められます。)、その次は友達や近所の人たち、そして一般の人たちと、次々と1番練習しやすい「場」から難しい「場」から難しい「場」へと変えてゆきます。

 これは、より良い接し方と言うことです。このとき障碍者本人と関る側としての私たちは、「自分は話べただから、もっと話し方が上手になって、相手を変える事が出来たらいい」と思ってしまうのではないでしょうか。親身に話し相手になっているのに、話し合った後互いに物足りなさと、違和感を感じた経験がないでしょうか。そして、いかに人を慰め、また元気付け、出来れば自分の考えている通りに動かすことが出来ないだろうかと、考えたのではないでしょうか。事実、私もそのように考えたし、人の心を読み、コントロールできる方法を様々な方面の方々が本に著しています。



 しかし自己主張では、まず人との接し方で躓いてしまうでしょう。だから、障碍者本人もまた私たちもきちんとした接し方を身につけておく必要があるのです。そのために「SST」の理解が必要なのです。



また、お読みくだされば幸いです。

4 精神障がい者のゆえに抱えている困難についての理解

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4 精神障害の故に抱えている

困難についての理解






 昨晩は、主日礼拝の後で私も疲れており、つい娘(統合失調症=分裂病障碍者)と激しく言い争ってしまいました。自分でもわかっているつもりでしたが、度重なる「自分なんか死んだほうがお父さんも助かるだろう」などという否定的な言葉と、理解してくれないという非難「結局、お父さんもほかの人と一緒だ、少しも私の気持ちをわかってくれない。(牧師だと言ってもほかの人と変わらないではないか)」との言葉にこだわってしまい、腹を立てて押さえつけようとしまいました。そして激しい言い争いと、深い溝をまた掘ってしまいました。このようなものが何もいえないものであることを重々承知しておりますが、少しでも理解していただけるならば、と主のお許しの中でさせていただいております。



 精神障碍者との接し方において最も心がけたいことは、

「会話の継続」と言うことでしょう。そのために必要な会話の技術として、本人の言葉を繰り返す(リピートする)ことです。

 さて、そのためにまず精神障碍者が障害の故に抱えている困難について理解する事は、とても大切な事です。おもに4つにまとめることができます。



 1、不安、   2、不眠、

 3、過労、   4、孤立



 この四つのうち、不安、不眠、過労は、薬で対処することが出来ますし、また薬でしか出来ないところです。しかし、四つ目の孤立は、薬では対処できないし、解消できません。人間関係の中でしか解決できない内容ですし、また人間関係の中で起こってくる症状なのです。そこで、今学ぼうとしているのは、その人間関係の中で起こってくる問題、そして解決も人間関係の中で対処する方法についてなのです。またそのためにには、精神障碍者が抱えている病状を良く知らなければ、対処の方法も見出す事が出来ません。



 そこで社会生活技能訓練(SST)の必要性と、障碍そのものの実態把握が大切な事が出てくるのです。そして、この社会生活技能訓練を受けた本人と環境(家族、教会、地域社会)がある場合と受けなかった場合では、その再発率では2倍強ほどの違いが出てくるのです。



 【治療と対処の方向性を見出す為に】

 精神障碍者だけで無く、あらゆる疾患に関していえることですが、病気になった人がどの程度治療に反応するかは、次の6つの要因に影響されます。



  ・ 病気の重さ

  ・ 薬物療法の効果

  ・ 本人の勇気

  ・ 家族の反応

  ・ 地域の反応

  ・ 治療システムの反応



 この中で、教会は家族(神の家族)の反応、地域の反応という点で影響を与える位置にあるということが出来るでしょう。そして、これらは、本人が抱えている障害の故の困難の4番である「孤立」を埋め、支援することなのです。これは、身体障害者にとっての車椅子であったり、杖・スロープ・手すり・手引き者・盲導犬・介助犬を必要とするのと同じ役割を果たす物理的バリアフリーであると理解しましょう。

 ここで非常に大切で欠かす事の出来ない要因は、本人が本来持っているうちなる資源、長所、逆境にも負けずに裁量の働きかけをして、自分の人生を生きるという態度(姿勢)なのです。この点においてキリスト者は、比較の世界に身をおかないのですから、能力や功績によらない人間観を持っているのですから最も有効な手段を手にしているといえるのです。

 つまり生きる為に自分の障碍をありのままに受け入れる事が第一歩なのです。しかし、これは本人もそして残念ながら家族の人たちの心情からも本当に難しい事だろうと思っております。ありのままの自分を一番許せないのが本人ですし、家族なのです。受け入れてしまったならば、絶望しかないと思っているのです。生きる意味を失ってしまうのです。ですから、イエス・キリストにある赦しを本当に語り続ける事が大切だと、今つくづく思っております。それをことあるごとに繰り返すのです。いつも発作が起こりますと自分の存在を疎ましく、消したくなるのです。(現れ方は本当に個人差があります。)



 そこで私たちが誤った励ましとして、当人に他の人に負けない功績がある事を無理やり探し出してやったり、他の人との比較して「あなたはまだいい方だ」という言葉かけがあります。「次には私がそのように比較されて見られる」という見方に変化します。そして、その判断はあっているでしょう。ですから、神に愛され、許しを与えるために御子イエスが身代わりとして死んで下さるほどに愛され大切にされていることを繰り返し、繰り返し語り続ける事によって、生きる力をそのうちに蓄えて行くのではないでしょうか。そして更に、内住のキリストの力により頼むことのすばらしさを伝えます。

 最終的にこのうちなる力によって与えられた勇気はその人が治療を受け続ける動因となります。そして自分と自分の人生の妨げとなっているものを取り除く意志と働きかけをしたいという源になるのではないでしょうか。

 そして、精神障碍者自身の不安や本人の将来に向かっての希望を語るとき、同意して聞いていくという励ましがいろいろな機会に与えられることが、なるべく自分の力で生きていこうとする力になるのではと思っております。



 さて大分長くなってしまいましたが、また、お読みくだされば幸いです。

3 精神科領域と心療内科、神経内科、神経科の領域の整理

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3 精神科領域と心療内科、神経内科、神経科の

それぞれの領域の整理





 創世記1章27節

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。



 創世記2章18節

 その後、神である主は仰せられた。

 人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」




 こんにちは、やっと第3回目を送る事が出来ます。これをはじめまして、よく分かっていなかった点や曖昧だった点が随分と見えてきました。そしてあれもこれもと付け加えていくうちに、なかなかまとまりがつかなくなってしまいました。でも、できるだけ広範囲に(それでも随分と狭いものしか出来ません)適用できるようにと考えて送りたいと思っております。

 私は、読者にお断りしておく必要のあること、そしてそれはどうしても了解しておいてほしいことをお伝えしていませんでした。

  それは、妄想、幻覚(幻聴、幻視)、思考のまとまりのなさ、脅迫症状、過度の緊張感、などの症状があればそれらはすべて分裂病(統合失調症)だと軽々に判断できないと言う事をよく承知しておいて頂きたいということです。

 精神科の専門医であっても統合失調症という診断を下すのに半年単位で、時には年単位で診察して様々な治療を行いつつ判断するのです。精神障碍者としての認定は、初診から6ヶ月経たないと申請をすることさえできません。それくらいにその病を判断するのは難しいと言う事です。私の娘の場合は、十五歳(中学3年)の時に発病したのですが、医師からその病名をはっきりと診断されたのは、二十歳を過ぎてからでした。男性の場合はまだ長い期間かかる場合があるかもしれません。

 なぜ、女性が二十歳で男性がまだ長いのかと言いますと。女性の場合は、大体二十歳前後でその精神的変化が一定する(激しい思春期の時期が終わる。)様ですし、男性の場合は更に2〜3年後のようです。又は成長(生物学的肉体の成長が止まる時期)の差と思われます。これは、あまりはっきりといえないと思います。個人差がかなりあるからです。

 実際問題として男性の発病のほうが女性よりも遅く発病する例が多いように思われます。女性の場合は、思春期(中学生後半から大学入学前後)が多く、男性の場合は二十歳過ぎ(大学生後半〜社会人1,2年生)〜二十代前半に発病する例が多くあるようです。女性の場合は、それだけでなく、妊娠、出産等の経過を通して発病する例も多くあります。

 本当に子どもを妊娠し、育て、出産するという事は決して当たり前のことではないことをもっともっと自覚する必要があるように思います。神様の恵みと守り、そして御心の中で誕生するのです。それ故に命の尊さということを真剣に考えて欲しいものですね。



  そして前述しました例は、あくまでも私の周りの人たちの例であって、個人差も条件もかなり違いがありますので、一概には言えないかもしれません。

 ただ私がここで大切な事として理解し、頭に留めておいて欲しいことは、繰り返しますが、妄想、幻覚(幻聴、幻視)、思考のまとまりのなさ、脅迫症状、過度の緊張感、など、の症状があればそれらはすべて分裂病(統合失調症)だと軽々と判断できないと言う事なのです。そうでない精神病疾患であっても同じような症状を表す事が多いのです。



 そして更に、精神科領域と心療内科、神経内科、神経科のそれぞれの領域を区別して理解することも大切な点です。簡単にその違いを説明させて頂きます。



「心療内科」

 =心身症を代表とするストレスが、関連して発現する身体の病気などを全人的医療の立場から治療してゆく医療方法を言います。つまり身体面だけでなく、心理面、社会面をも含めて総合的、統合的に見ていこうとすることを特徴とします。代表的な疾患あるいは関連疾患に次のようなものがあります。

 気管支喘息、過換気症候群、心臓神経症、高血圧、消化性潰瘍、神経性胃炎、過敏性腸症候群(下痢、便秘)、拒食症、過食症、周期性嘔吐、自律神経失調症、更年期障害、アトピー性皮膚炎、斜頚、眼瞼痙攣、チック(現在は、脳障害との理解が主流となっている=育て方や家庭環境等によらない)、筋緊張性頭痛、慢性頭痛、肩こり、心気症、恐怖症、しびれ、めまい、単純性肥満、インポテンツ、ヒステリー、てんかん、神経因性膀胱、心因性視力障害・聴力障害、耳鳴り、夜驚症等があげられます。



「神経内科」

 =パーキンソン病を代表とする神経変性疾患のことで、脳の神経やその周辺の筋肉や血管の病気を見るところです。 神経内科の領域では、頭痛、運動麻痺、失語、味覚障害、痙攣、ふるえ、末梢神経障害、しびれ、知覚障害、脳梗塞、脳出血、脳動脈硬化、てんかんなどをあげること

が出来ます。



「神経科」

 =精神科領域の病気を脳の構造の変化と真理的変化との密接な関係があることを念頭において理解し、神経系の活動と精神病との関係の観点から、様々な診断検査を通して、脳をより生理学的、科学的に見ていこうとする傾向にあります。



「精神科」

 =躁鬱病、神経症(ノイローゼ)、統合失調症、などを代表とする病気についての人間の心理面、精神面(思考、感情)、行動面での以上を人間関係や社会との関連から理解し、治療していこうとします。



 このような領域の区別の仕方は、現在においてかなり変化してきているように思えます。何故なら、統合失調症に見られるように、精神病のほとんどが脳内ホルモンや伝達神経系統の異常によるとの考え方が中心になってきたからです。ですから、ほとんどの精神科が「精神・神経科」といったように一緒になった診療窓口になっているのがほとんどではないでしょうか。



 前置きが長くなってしまいましたが、先回の続きをお話させていただきます。

先回、大切なのは、本人の言葉を繰り返す、リピートすることです。といいました。

その理由について。

 つまり本人は、妄想と幻視、幻聴等の幻覚の世界にあるときには、他のことに全く目も心も向けられない状態にない(それは、つねに様々な思い、声や音、そして異常な光景を目にしている)からなのです。自分の意志や気分、心の持ち方や気力で打ち消したり、目の前から消したり出来ないのです。だから病気だと言わなければなりません。この方向転換が出来るならば、病気とは言わないのです。

このように精神障碍者が、その障碍の故に抱えている困難は、おもに4つにまとめることが出来ます。



1、不安、2、不眠、3、過労、4、孤立



この四つのうち、不安、不眠、過労は、薬で対処することが出来ますし、また薬でしか出来ないところです。しかし、四つ目の孤立は、薬では対処できないし、解消できません。人間関係の中でしか解決できない内容ですし、また人間関係の中で起こってくる症状なのです。そこで、今学ぼうとしているのは、その人間関係の中で起こってくる問題、そして解決も人間関係の中で対処することなのです。ここで社会生活技能訓練(SST)の必要性がでてくるのです。そして、この社会生活技能訓練を受けた本人と環境にある場合と受けなかった場合では、その再発率では2倍強ほどの違いと再発までの期間に違いが出て来るのです。この部分は、聖書の人間観(価値観、世界観を含む)によってしか本当の対処と、根拠を持ちえないのです。

 精神障碍者だけで無く、あらゆる疾患に関していえることですが、病気になった人がどの程度治療に反応するか(治療効果について)は、次の6つの要因に影響されます。



・ 病気の重さ

・ 薬物療法の効果

・ 本人の勇気

・ 家族の反応

・ 地域の反応

・ 治療システムの反応



 この中で、教会は家族(神の家族)の反応、地域の反応という点で影響を与える位置にあるということが出来るでしょう。そして、これらは、本人が抱えている障害の故に抱える困難の4番である「孤立」を埋め、支援するのです。これは(抗精神薬も含む)、身体障害者にとっての車椅子であったり、杖・スロープ・手すり・手引き者・盲導犬・介助犬を必要とするのと同じ役割を果たす物理的バリアフリーであると理解しましょう。



次回4に続く

2. 私の失敗例から

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2. 私の失敗例から



 もう一度お断りいたしますが、私はカウンセリングについて書いているわけではありません。あくまでも、精神病、特に精神分裂病(統合調節失調症)について、これがどういう病気であるのか、またどのように関ってきているかをお伝えしたいと思っての投稿ですので、ご理解ください。牧師として、何を大切にして行くのかを同時に教えられています。そんなこともあわせてお伝えしているのです。ご了承ください。さて、先回の続きです。接し方の失敗例をいくつか挙げて行きます。

 多くの場合(親の私もそうですが)、不適切な次のような思いと姿勢をとってしまい失敗してしまうのです。むしろその様な失敗を経験したので、これらの理解が深まるのでしょう。






*私の失敗例から

① 誰でもその様なことは思ってしまうことだから、あまり気にしてはいけないよ。とアドバイスしてしまうことです。

問題解決を何とか提供しようとしてひとつの方向性を指し示してしまうのです。これは、いくらしてもほとんどと労に終わってしまうことでしょう。



② 悲観的に何時までもくよくよしてないで前を見て頑張っていこう。という励ましの言葉です。



③ 薬にばかり頼ってはいけないよ。自分の気持ちで乗り切らなければならない。と薬を否定する言葉です。精神障碍者にとって薬

は、本人だけに聴こえてくる言葉(その内容は、ほとんどの場合が、存在を否定したり、罵倒する言葉、中傷する言葉、時には面白いこと、楽しい言葉を持って語りかける声を聞くことがあります。)をとめる為にどうしても必要なものなのです。時には、とても奇妙で怖い映像を見せられたり、恐怖感が襲ってきたりします。それらを緩和したり、消したりするのは精神的な努力や気のもち方では、どうにもならないのが脳の障害なのです。

ですから、薬はどうしても飲まなければなりません。



例えばどのような恐怖感かと言うと娘の話によりますと次のようなものだそうです。



 (1)遠くから人が近づいてくるのが見える。誰だかわからないし、初めの内は、顔もはっきりしないけれどだんだん近づいてきて、顔がはっきりした時、よく見ているとその人の顔か目の前で溶けて崩れてゆくのが見えるそうです。

 (2)人が追いかけてきて必死になって逃げるのだけれど、追いつかれて後ろを振り向くと骸骨だったりする。そうです。

 (3)とてもかわいがっているペットの猫がいるのですが、その猫が時々とても奇妙な模様と鬼と猫が混じったような顔になったり、姿になったりして見える。そうです。そして、父親である私の顔が、とても赤くなって見える。ことがあるそうです。

これらの現象は、その気持ちによって見えたり見えなかったりするのではなく、脳内にある伝達物質(後で学ぶことになるでしょう)の影響によるものです。これが病気なのです。ですから、薬で抑える以外には無いのです。その点を理解していただければ幸いです。



④ また、本人が辛くなったり、苦しんだり、他者から見ると単なる考えすぎると思われたりするような言動をする時、実に本人は、

病気の故にこのような状態になっていることを話し、説明しようとします。そのとき、「何でも病気のせいにしてはいけないよ」とアドバイスすることは、本人にとって疎外感を感じさせるだけで、何の解決にもなりません。むしろ本人が、病識を持っていることなのでとても大切なことなのです。最も問題で厄介なのは、本人に病識がないというときです。ですから、本人が「病気の為にこのように苦しまなければならない」とか「病気だからすぐ不安になって、くよくよと思い悩んでしまう」と訴えた時、『そう、それは大変だね。その病気はしんどいね。祈っているからね。』と言って、それを正しく評価して理解しましょう。

 

 このために大切なのは、本人の言葉を繰り返す、リピートすることです。

例えば、「どうしてこんなに神様は私を苦しめるんだろう、神様なんか信じたくない。」と本人が言った時、私などは神様の愛について説明し、救いについて、十字架についてかかられたほどに愛してくださったことを語り、説得して、その誤りを正そうとします。しかし、まずそれをしてはならないのです。まず同意することです。このとき正しくないこと「神様なんか信じても何の意味もない。」といった時に、「そうだね。神様なんか信じても意味ないね。」ということが同意することではありません。そうではくて、「神様を信じていても本当につらいんだね。だから信じていても何の意味もないと思ってしまうんだね。」「それくらい辛いんだね。」と、相手の言ったことを繰り返すことなのです。それから、会話の継続が始ります。



次回3に続く

1.はじめに 精神障がい者の理解を深めていただくために

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はじめに



 精神障碍者について少しでも理解して頂きたく、この資料を出しました。

 この学びをして行くうちに精神障碍者に接する時だけのものではなく、

 人間関係をスムーズに持てなくなっている現代人にとって必要なレッスンだと考えました。



 現代人は、人の間で生まれ育つと言う経験から遠ざけられています。ですから、成長過程で習得してくる対人関係の良好さを持つ技術をもてなかたったのです。その様な現代人には、この社会生活技能訓練の理解が大いに役立つものかつ必要となることでしょう。



 さて、まず精神障害の症状について理解しておいていただきたいいくつかのことがあります。

しかし、そのほとんどの症状は、特別に異質なものはなく、誰しも感じたり、戸惑ったりしているものです。ですから新しい感覚はなく、日常的なものです。多くの方たちが、すでに経験済みのことばかりなのです。精神障碍者が抱えている障害は、その誰でもが経験している葛藤や苦しみですから、精神障碍者に対しても気持ちの持ち方一つで克服できると思いやすいことばかりです。そのために多くの方々が、善意から本人を励ますつもりで、障碍者にとって以下の不適切な行動(励ましの言葉、リハビリプログラム、態度、批判)をしてしまうのです。



 これは決してその人(関ってくれた家族や友人、周りの人たち)が、悪い人だから、思いやりがないから、と言うのでは無いのです。むしろ、障碍者と関ろうとして接してくださっているのですからとても善良な人たち(勿論罪を持っていない人という意味ではありません)と言えるでしょう。たとえどんなに善良な人であっても、精神障碍者にとって適切な言葉賭け、態度等が取れるということとは違うのです。それは、知らなければなりません。そのための学びなのです。



 多くの場合(親の私もそうですが)、不適切な次のような思いと姿勢をとってしまい失敗してしまうのです。むしろその様な失敗を経験したので、これらの理解が深まるのでしょう。



次回2に続きます。

精神障がい者と教会との関係を求めて

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精神障害者との関係を求めて

(教会と精神障害者との関係)



 多くの人たちの心を痛める事件が最近、頻繁に起こっております。その中でも今年6月に起きた大阪の付属小学校の事件は、各方面に非常に大きな波紋を広げています。それは、この容疑者が精神分裂病者であったとの報道が数多く長時間に渡ってなされたうえ、多くの学識経験者なる人たちのほとんどが、精神病者が必ず重大な犯罪を繰り返し犯す危険な存在であるかのごとくにコメントしたからです。



 その結果、「精神病者は怖い、何をしでかすか分かったものではない。」との思いが噴出した感があります。また更に、心痛める、激しい憤りさえ覚える発言の中には、「重大な犯罪を犯す可能性のある精神障害者を野放しにしておいてよいのか。」などの報道がなされたことです。「野放し」という表現を報道機関が用いていることに激しい憤りを覚えます。何故なら、この表現は、精神障害者を人間と見ていない言葉です。野犬や野獣のごとき見方だからです。これは、明らかに差別です。



 さて、その様な見方をする政治関係者、司法関係者までが加わり、精神病という病を負った人々(好きでなった人は一人もいない)とその家族に、治療の対象にならない病であるとの不安と傷を与えました。



 どのような傷かと言うと、精神障害者自身は二つの意味で恐怖をもつものとなりました。



一つは、

 自分ももしかしたら、今回のような恐ろしい事件を起こしてしまうだろうか、と言う自分の存在そのものに対する恐怖心です。



もう一つは、

 世間の人々の見る目がまた一段と厳しく、偏見に富んだものとなり、皆から嫌われ、きちがい扱いされ、疎外されるのではないか、という恐怖感です。



 これらの二つの不安は、私たちには想像できないほどの恐怖となっています。まるで恐ろしい怪物の待つ場所に向かって、真っ暗な闇の中を歩むがごとき思いです。何故なら、自分の存在そのものが価値がないどころか、悪であり、害であると評価してしまうからです。そして精神病患者とその家族にとっては、社会の精神障害者に対しての理解がまた後退してしまう、と言うなんともやりきれない思いと、そこから来る差別的扱いが一段と激しくなるのではないか、という恐れです。



 この精神障害者に対しての思いは、教会においてもまだまだ世間とほとんど変わらない状態ではないかと思われます。ましてそこに宗教的見方が加わり、独特な理解をもっている人たちの集まりと思えることがあります。つまり、悪霊付き者説、怠け者説、過度の依存者説、親の育て方の問題(育児誤り説)、先祖の因縁説(キリスト信仰の価値観に立ち切れない思想としての祟りや呪いも含む)、遺伝説等さまざまな見解を持ちます。



 ほとんどの人たちが、一つの病として理解しようとしていませんし、障害とも見ません。外傷がない(目に見えない障害、検査をしても原因も状態も特定しにくい障害)為に、精神的なもので何とかなるもの、気持ちの持ち方しだいで治る事のできるものと考えているのです。それが証拠に、「薬に頼ってはいけない。」「薬に依存してはいけない。」という真剣で、親身なアドバイスを頂くのです。最後には、信仰によって何とかなるはずである。信仰がないから、その様な状態になるという熱心なクリスチャンまで現れる始末です。



 そういう人たちにお聞きしたいのです。足を何かの事故などで失った人に、「あなたは、車椅子や松葉杖に頼ってはいけない。気持ちさえしっかりしていれば立って歩き、走れるはずだ。他の人より速く、走れるはずだ。さあ、立って走ってみなさい。気力と信仰があれば、立って走れるはずです。」と言われるのでしょうか。そういうことを言う人はいないはずです。ところが精神障害者には、それと同じことを言っているのです。



 そこで二つの面から精神病また精神障害者についてお話しいたします。

 一つは、聖書は苦難や病気についてどのようにいっているのか、という点からです。

 二つ目は、精神病とはどんな病気で精神病患者はどのような思いを持っている人たちなのかということです。覚えて頂きたいことは、精神病の症状の表れ方は、患者の数だけあるということです。ですから、精神病の表れ方のこれだけ知っていれば良いと言うものはありません。そこに専門家でも診断のつけ方の違いが出て来るのです。



 聖書は、苦しみや悲しみについて決して安易に取り扱ってはいません。あるクリスチャンといわれる人は、ある程度の人の苦しみや不幸に対してロマ人への手紙8章28節を根拠に「神は全てのことを働かせて益としてくださる、とあるのだからきっと無駄には終わらないはずです。頑張りましょう。信仰をもっていきましょう。」と励ますでしょうし、また当人もその言葉で何とか頑張ろうとします。しかし、その頑張りは続かないことが多かったり、深い悲しみと苦しみの深みにいる人には逆に、東と西が遠いように広い隔たりを思わせるだけなのです。このような用い方が、聖書を正しく用いていることになるのでしょうか。私は、この言葉は悲しみや苦しみにあった人に対してではなく、このような問題にあたる前に「私たちの人間の現実の姿」として理解しておくために有益ですし、同じロマ書の中に「罪から来る報酬は死です」との激しくも厳しい言葉があります。私たちはこの言葉によって、自分が人間に過ぎず、神にはなれないことを思い知らされるのです。



 それでは、聖書は死と病について何と言っているでしょうか。死と病は、人間の罪に対してなされた神の深い配慮の結果であると言う点がまず第一にあります。第二に、個人的な罪の直接的な裁きの結果としての死や苦しみがあります。そして第三に、病や苦しみが、必ずしも個人の罪に対する直接の裁きの結果でないものがあります。



 ヨハネ福音書9章の生まれつきの盲人は、その人の親の罪(今日的には育て方も含むと考えます)でも、本人の罪の結果でもない苦しみや死や悲しみがあることを明らかにしています。(勿論、この人においても人間の反逆としての罪の結果としての病と死という苦しみはあることは別にしてです。)悪霊によるとも言っておりません。ただ、神の栄光が表されるためであると主イエス様は言われております。なぜなのかという理由は述べられておりません。それは神の深い御摂理のうちにあることなのでしょう。聖書には多くの病ある主の働き人が出てきます。パウロもそしてテモテもトロピモも更に、40年間生まれつき足の悪い人もおりました。彼らは、病にかかり、死ぬほどの苦しみに合った者もおります。しかし、その中で奇跡的に癒されたのは、生まれつきの盲人と足の悪い人の二人でした。その二人にしても長い間、苦しみを家族と共に、全くの失意の内に過ごしてきたのでした。



 ここで私が問題提議するのは、次のようなことです。

 一つは、罪と苦しみを本質的に悪であるとしか考えていない誤りについてです。主権者なる神が罪と苦しみの背後に立っておられること。苦しみの時に神を呼び求めることを求めておられるということを忘れているのです。神は時には訓練の手段として、罪と苦しみを用いられることがある、などとは考えていないのです。彼らは、自分(人にとって)の都合のよいことだけを祝福として受け入れるという思いに捕らわれているのです。



 二つ目は、主は、弱さを通してご自分の力を示されると言う神の方法があることを見ようとしていないのです。勝利(自分の願いどおりになることだけ)の信仰だけを信仰であると説教しても、ひどい苦しみの只中にあって、本当に辛い中に忍耐を持って忍ぶと言う信仰があり、勝利があるという広い視野での信仰理解がないのです。そこには、癒しと神の力と言う信仰以外を見ていないのです。それは、十字架の正しい理解がないといえるのではないでしょうか。



 三つ目は、復活の主イエスがトマスに言われた言葉を今生きている自分の信仰としていないところから来ます。確かに、しるしと不思議は、信仰を得させるために、時々聖書に現れています。しかし主イエスは、復活の主を見て信じる信仰は見ないで信じる信仰に劣っていると見なされます(ヨハネ20章29節)。しかも、しるしと不思議を求める人人は、しばしば激しく非難されているのです(例えばマタイ12章39節、ヨハネ4章48節)。



 いつのまにか、私たちの信仰は苦しみや病や悲しみから解放される信仰、その様な状態にならない信仰こそが素晴らしい信仰と思っていないでしょうか。その様な信仰は、現代の功利主義の影響をもろに受けているか、神中心の信仰(主権者なる神)ではなく自分中心のわがままな信仰(罪そのもの)になっているからではないでしょうか。



 その上で、精神病について考えて見ます。精神病には、全くの無知から来ている偏見と差別、危険視があります。



 まず初めに、精神障害者は、犯罪を犯しやすい、と言う見方についてですが、今年出版された犯罪白書によりますと、平成10年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員32万4,263人のうち、精神障害者は634人、精神障害の疑いのあるものは1,378人と報告されております。精神障害者とはっきり診断された人は、全犯罪者の0,19%に過ぎないことを報告しております。また、精神障害の疑いのある人を含めても0,6%になるだけです。その犯罪別から見るならば窃盗・詐欺・横領が最も多い、と報告されております。これから見ると新聞の調査報告結果や報道から受けるイメージとの差はどれほど大きいものであるか、分かって頂けると思います。



 そもそも犯罪を起こすにはある主の精神力が必要です。しかし、精神病患者は薬の副作用もあって、無気力で朦朧とした状態になりがちです。そんな彼らが一般の人より犯罪を起こす率が高いはずはありません。実際に検挙されていない犯罪や巧妙な詐欺を含めますと更にこの精神障害者による犯罪率は低くなるでしょう。「精神病者は何をしでかすかわからないから怖い」という思いが、偏見なのです。何をしでかすか分からないのは、精神病者に限らないのです。



 また、精神障害者にとって、精神障害者であるからと言う理由だけで正当な裁判を受ける権利を奪われることの差別があります。その犯罪の重大さは、精神病者であっても同じであることを認めることが、人として認めることです。裁判を受ける権利を剥奪しないで欲しいのです。そして、本当に犯罪を犯したのか、その動機は何かが審議され、弁明する機会が提供されなければなりません。



 二つ目は、どのような人が精神病になるのか、という点についですが、どんな人もこの病気にかかる可能性をもっているといってよいでしょう。精神病は決して珍しい病気ではなく、100人に1人〜2人の割合で発病しているありふれた病気です。そして大切なことは、精神病は、「脳の病気_だと言う正しい理解に立つということです。考えすぎ、人間関係で悩みすぎ、精神的に疲れた状態、あるいは気持ちが落ち込んだ状態と考えるのは正しくありません。そして、性格が悪いからだ、とか怠け者であるとかの理解も間違いです。ましては、悪霊つき(この場合は精神病とはいわない)であるとか、不信仰の結果であるとか、特別に罪深いからだという考え方も正しくありません。



 また、遺伝や親の育て方が原因で無い事もわかっております。分裂病患者の両親の約89%は分裂病ではありません。81%は、両親、兄弟ともこの病気ではありません。更に子どもや甥、姪まで調べても63%は遺伝的なかかわりがないとの研究結果がでております。



 ではどのような人がなる傾向があるのでしょうか。素質的にストレスに耐える力の弱い人にいろいろなストレスが加わって発病すると言われています。実に、この病気の人たちは、気の良い、優しい人たちが多いのです。彼らは、本当に思いやりのある人たちが多いのです。その優しさが、現代社会の中で摩擦となり、ストレスとなっていくように思われます。生き馬の目を抜くと言われる現代社会で、堂々と、先頭を切って生きている人のほうが、まともではないのではないかと思うことさえあります。





a 自立とは何か

 自立には、それぞれのイメージがあるが、どのように考えたらよいのか。「働けるようになる」と言うことを自立と考えたとき、松原病院では以前、退院したら働く、と言うことにこだわりすぎた結果、再発、再入院というケースが多かった。その為に社会と病院の中間的施設のディケアの必要性が急務となった。これは、親子べったりの関係に、ある程度の距離をおくためにも必要。また、「一人で生活していかなければ、自立と言うことにならないか」と言う問いに対しては、人の助けを借りながら、自分の生活をしてゆく時、それも自立ではないだろうかと考える。その為に援護寮、地域生活支援センター、グループホーム等を利用する。





b 自立を妨げるもの

 ① 病気の再発

 ② 生活障害

 ③ 過保護・過干渉



 ②について、

  これは、病気でなければ、自然に身につくべきものだが、病気ゆえに出来ない。また身につける機会が無いことによります。また、その人が何歳の時に発病したかによって大きな差があるように思われます。何故なら発病しますとその病気との戦いで全く社会的適用の為の習慣を身につけることが困難になっているからではないでしょうか。また過去出来たこともできなくなるという状態も起こってきます。これは、病気によって起こる脳障害の故なのか、薬の副作用としてのものか、判断しにくいが生活習慣の退行現象が起こってくるように見えます。ですから、社会生活訓練は、とても大切なものといわなければなりません。その時、同じ統合失調症でも症状は、障がい者の数だけ異なり、対応の仕方も個人差があるということを肝に銘じておきたいものです。



 ア 生活の仕方の障害

  食事の仕方、金銭の扱い方、身だしなみ、社会資源の利用、服薬の管理、

 

 イ 人付き合いの障害

人付き合いが苦手、社会常識が不十分、他人への配慮に欠ける、他人との協調が困難、自分への判断や評価が的外れ。  例えば、人との会話において、理解したと言うサインをうなずきで表すが、ある患者は、そのうなずき等のサインが身についていない。SSTでは、そのうなずきの練習から始める。



 ウ 働くことの障害

 作業能率の低下、集中力の低下、融通が利かない、疲れやすい、習得が遅い、手順が長い、



 エ まとめる力の障害

 臨機応変には行かない、気配りが出来にくい、全体を掴み難い、細かいことにこだわる。 考えが頑なになりがち。





c 自立を促すために必要なもの

 ① 心理教育 症状自己管理

 病気の理解、服薬の重要性の理解、再発パターンの発見、繰り返せば繰り返すほど直りが悪くなる。



 ② 生活障害に配慮したアプローチ

 ア ごく単純化して繰り返しやってみる。 大切なこととそうでないことを理解するために具体的な行動を繰り返しやる(例:ガスの火をつける、お湯を沸かす)

 イ 良い点を見つけてうんと褒める。  放って置くと自分はだめだと言う気持ちになるので褒めることが大切。



 アとイは、認めてもらっている。役立っていると言う実感・・・・ここから一人暮らしへと発展した人もいる。結果ではなく、やり遂げようとした努力を褒める。





 紙面の関係上わたしは、最後に二つのことを述べて終わりとします。

 一つは、この文は精神障害についての序文にもなっていないということです。また、全ての精神障害者の意見を代弁しているとは決して思っていないとうことです。

 二つ目は、このような精神障害者についての関わり方は、決して一律的ではないことと、精神病について真剣な学びをして、いろいろな個性の一つでもあるという考え方があるということを忘れないで頂きたいのです。そして、精神障害者にあって接してみてください。そこから始まるのではないでしょうか。次回の機会が許されることを願って終わります。

6 聞き上手になるための条件

理解を深めていただくためにコメントは受け付けていません。

6 聞き上手になるための条件







1、 SST(social skills training)とは、



 ソーシャル・スキルズ・トレーニング(社会生活技能訓練)のことです。

 統合失調症(精神分裂病)を患っている人も完備されたリハビリテーションのプログラムに参加する事により、いろいろな生活技能を修得することが出来るのです。これは、身体障害者が、様々なトレーニングを積むことによってより社会生活が主体的になってゆき、活動範囲がより広がって行くのと同じなのです。しかし、精神障碍者のリハビリではその方法がかなり違っています。それは、物理的障害(物理的バリアー)ではなく人間関係における障碍ですので、その社会技能訓練も人間関係訓練というのになります。

 その事が最も研究されている分野としての生活技能訓練(SST)なのです。



「SST」は、社会生活技能といって、受信・処理・送信の三つの技能をさし、それを訓練(トレーニング)して、より良い人間関係を創り、再発防止や、生活の質の向上をねらうものです。この三つの技能は、病気の有無に関係なく、私たちの生活に必要なものです。例えば、誰しもが一番簡単だと思っている受信について考えてみましょう。



 例1:Tさん(ご本人・女性)の話

 Tさんは夕方になったので、「お母さん暗くなったね」と言いました。台所でようをしていたお母さんは、「電気くらい、自分でつけてよね」と言いました。Tさんはそのとき、手を伸ばしてスイッチを押そうとしているところでした。それを見ていたら問題はなかったのですが、Tさんは(親はいつも私の気持ちを分かってくれない)と受け取り、鬱々とした状態になってしまったのです。

  こんなことはいつも私たちも経験することです。お母さんは、(「暗くなったね」って、きっと私に電気をつけさせる気だわ。いつもそうなんだから、全く依存的で困った子だわ。親亡き後どうするつもり!電気ぐらい、自分でつけさせなくちゃ)と考えてしまったのでしょう。

  子どもを見る親の側に<この子は依存的でいつも親にさせる>という、決めつけや思い込みのフィルターがついていると、そこを通る<暗くなったね>というなんでもない言葉の意味が歪められて、ただしい受信ができなくなり、トラブル発生となってしまうのです。

 

 フィルターとは、決め付け、思い込み、癖とか、色眼鏡、ものさし、価値観など、多々あります。これは受信する側だけでなく、勿論送信する側にもついているので、コミュニケーションはややこしくなるのです。この両者のフィルターの為、誤解が生じ、いさかいとなり、私たちは疲れるのです。

 この仕組みが分かると、ご家族も、送信技能だけが問題ではなく、実は受信技能も大問題だったと、気付くことでしょう。







2、 良い聞き役になること



 「ぜんかれん」誌に、当事者の<家族に対する希望>についてのアンケートが載っていました(1996年9月号)。上位三つが、「もっと私の気持ちをわかって欲しい」「口やかましく指示しないで欲しい」「私を傷つける様な言動をしないで欲しい」でした。

 ご本人たちは、絶えず人の愛を計っている、とても敏感な方々です。自分の気持ちが分かってもらえて、大事にされていると思うと安心し、そうでなければ不安になるのです。一人のご本人が次のような言葉を話してくれました。



 「雨が降ってきたときに・・・、傘を貸してくれるのではなくて・・・、一緒にぬれてくれるほうが嬉しい。元気が出る。」・・・傘とは、助言、援助、解決法などを指します。辛い時、それらよりも辛い気持ちをそっくり分かってくれるほうが、より嬉しいといっているのです。心をつかむキーワードです。



 宮内勝先生は(精神科ディケアマニュアル)(金剛出版発行)という本の中で、家族が出来る重要な治療的役割として、"良い聞き役になること"と述べられています。言い換えれば、"家族が上手に聞けるようになると、ご本人の治療が進む"ということです。家族もご本人も、願っていることが、上手な聞き方から始まるとしたら、その技術を身につけましょう。そうすれば、相手は必ず変わります。





3、 良い聞き方とは



① 相手が話しやすいように、相手のほうを向き、嬉しい話には嬉しい表情で、くらい話には暗い表情で、相手の話の合わせて話を聞きましょう。あいづちもいろいろあります。楽しい話にはすぐ、深刻な話には少し間をおいてなど、間の取り方、声の調子も大事です。視線に聞き方の真剣さが表れます。でもたまには視線を落としましょう。お互いにホッとします。



② 相手の言ったせりふを、時々そのまま相手に返しましょう。なぞるともリピートするとも言います。「あなたはこれこれ(相手のセリフ)と思うのね」と。それが相手にとって、きちんと話を受け取ってくれたと分かる大事な、フィルターを通さない聞き方です。「暗くなったね」には「そうだね、暗くなったね」でいいのです。そう思わないときは「えっ暗くなったと思うの?私はそう思わないけど、どうかした? 」と続きます。



 例1:Mさん(父親)は息子さんと会話ができなくて、いつも歯がゆく思っていました。SSTで訓練した日、おりよく息子さんが話しかけてきました。セリフはいつも決まったせりふです。「お父さん、僕赤ちゃんみたいだろう?」いつもは「そんなことはないよ」で終わりでした。その日は「お前は、自分のこと、赤ちゃん見たいって思ってんのかい」と返せました。



 するとそこから会話がつながったのです。「そうだよ。」「そうか。でもお父さんは、お前のこと赤ちゃんみたいって思わないよ」「どうして?」「どうしてって、お前はコンビニに一人で行けるし、親がいないときは冷蔵庫開けて自分でちゃんと食べれるし、赤ちゃんはそんなこと出来ないよ」「そっかぁ!」息子さんの表情はとても晴れやかでだったそうです。Mさんは(SSTは魔法みたいだ)と思ったそうです。そのくらい、会話のやり取りが嬉しかったのです。この日から、息子さんはMさんに心を開き、自分の思いが言えるようになりました。

この相手のセリフをなぞることは、信頼関係をつくるためにとても効果があります。相手は私の話を真剣に聞こうとしている、私は大事にされていると感じ、話を聞く方は、相手のセリフをなぞることで相手の気持ちが良く理解できるようになり、共感の言葉が言えるようになるのです。共感とは、「困っているんだね・」「嬉しいのね」「良かったね」「神様の恵みだね」などです。



 例2:共感の良い例があります。Nさん(父親)は、いつも息子さんの言う妄想を取ってやりたくて、息子さんの妄想を否定していました。SSTで学んでからNさんの対応が変わりました。「そうか、お父さんには見えないけど、お前はこの部屋に隠しカメラや盗聴器があるって思うんだね(息子さんのせりふの繰り返し)。だったら怖いだろうな(共感できた)。でもお父さんが守ってあげるよ(安心をあげる)」――Nさんを嫌っていた息子さんは、Nさんを信頼し、今はいい関係になりました。



 相手の言葉を覚えきれなかったり、忘れてしまった時には、臆せずに「で、何だったけ」と聞きなおしましょう。これがまた、相手にとっては嬉しいことなのです。いいかげんじゃない聞き方だと感じ、愛されていると思うのです。

 この反復確認とも言う、相手のセリフをなぞることは、私たちが成長する過程で親からされていない(助言や支持や批判や叱責などが多かった)ことなので、「やるぞ!」と意識しないと出来ないと思います。でも続けるうちに、本物になりますから、是非祈りつつ試みてください。



③ 相手のいう話がもっとはっきりと理解できるように、質問するのです。

「具体的に言うと?」「どんなところが?」「どんなふうに?」「どうして?」などです。鳥になりたい、犬になりたいと言われて、難題だと困ってしまったご家族がいらっしゃいましたが、わからない時には率直に聞いたほうが早いですね。「どうしてそう思うの?」の一言から、現在の悩みからリハビリの目標までの様々な思いを取り除くことが出来るでしょう。

 聞き方としては、まだ続きがあるのですが、家族カウンセラーではないので、日常の会話でここまで出来れば大成功です。信頼関係は出来ます。この関係ができた上で、親からのメッセージを伝えれば、かなりのところでご本人は聞いてくれるはずです。好きな人の話は聞こうとするのが人の妙なところですから。

また、話が聞ける自分になり、良い関係になります。「聞くは宝」です。そして、どうしても言いたい時は、この話が最後なったように、話をきちんと聞いたあと「私ならこうするけど」と助言提案してください。



尚このノートは、「財団法人 全国精神障碍者家族連合会」が出版しております機関誌「ぜんかれん」を参照にしております。



ヤコブの手紙1章19節

 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。



 ある人から次のような質問を頂きました。「人とのかかわりの基本は、聖書の中から導き出せるものと思っているのですが、SSTとどのように接点を見つけていったらよいのか」について。



 繰り返し先申し上げますが、私も理解しているつもりでも現実は失敗の連続です。でも自分が娘に対しての接し方が不適切で、娘を大切にしていることが伝えられなかったのです。私の接し方が不適切であった、と言う理解は、この学びをして理解したところなのです。もし、この接し方を少しも知らなかったならば、きっと自分をいつも正しいとして受け入れられない娘を責めていた事と思います。結局コミュニケーションは取れないまま、終わってしまっている事と思うのです。



 そして、自分の娘に対してさえ、愛のない、罪人である事を示され、キリストの愛の深さ、広さ、そして豊かさを知り、その愛を無償で受けているのですから、愛する事の大切さを切に思い、悔い改めと、新しい歩みへの決に再び立たせられるのです。



 ですから人間のかかわりの基本は、やはり聖書の中から導き出せるものですし、またそこに立たなければならないと信じるのです。



2003年3月

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