金沢聖書バプテスト教会

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たねまき1〜6

たねまき5 エホバの証人からきゅうしゅつされて5

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たねまき Vol.5


エホバの証人から救出されて5





 


 信用していた主人と両親、特に父には、小さな頃から「うそをつくな。正しいことをしろ。いつも正義を求めろ。」と教えられていたのに、私をだましたんだ。この心から愛する人々のために反対されてもエホバの証人をやめずにこれたのに、とうとう私にはエホバの証人の仲間以外、誰も分かってくれる人はいなくなった。そう思った瞬間、私にとって、その部屋、主人、両親、草刈先生は、遠い非現実的なものとなりました。私の思考回路はエホバの証人モードに切り替えられ、耳に入ってくることは心には届かず、ただの音として通り過ぎていくだけでした。



 草刈先生は、穏やかに話しておられました。確か色々な資料や、聖書から、エホバの証人の教えの矛盾を示してくださっていたようにも思います。けれども、私には全く聞こえても、見えてもいませんでした。耳も目もちゃんと開いていたのにもかかわらず、心が閉ざされていたのでしょう。今振り返ってみても、あの時どんな話をしてくださったのか、ほとんど覚えてえいません。ただ一方で、冷静に草刈先生を観察することができました。



 「この人は何でこんな仕事をしているのだろう。とても穏やかでよい人のようだ。聖書をよく読んでいらっしゃる。エホバの証人のこともよく知っておられる。資料は偽物ではないらしい。とても古い資料もあるようだ。聖書の神を信じておられる。聖書を全て信じ、権威をおいておられる。………。」



 時間は刻々と過ぎ、夜が明けて街が活動を始めても、私の周りはバリアーが張られ、時が止まったままでした。私はいったいいつまで、この人と居るのだろう。

早く家に帰りたい、と思いました。そんな心を見て取られたのか、草刈先生は「私はあなたがまだ心を開いて私の話を聞こうと思えないで居ることを知っています。けれどもこれは心を白紙の、まだエホバの証人の教えを聞いていない状態に戻そうと思ってもらえないと始まらないのです。私は二晩でも三晩でもここに居るつもりです。」とおっしゃられました。その日に帰る予定で、子供たちにもそういって出ていた私はとても驚きました。父も主人も、「そのために、仕事を休みにしてある。」というのです。父は一週間、主人は一ヶ月神戸に居るつもりで来た、と聞いて、私は「これは私も真剣に闘わなければ………。」と焦りました。



 それでも、最初の「だまされた。」という怒りはおさまっっていましたし、むしろ、あの父がそこまでして場を作ったんだ。主人も金沢の両親も心から心配してくれているんだ。と思えるようになっていました。そして、今度は自分の中で、自分はどうすべきだろう。どうすることがエホバ神の喜ぶことだろう。と考え始めました。





 私は、「エホバ、どうすればいいのですか。」と祈り、助けを求めました。それまでのエホバの証人としての学びや、主人とのすれ違い、伝道した喜び、仲間の証人たちとの楽しかった交わり、家庭の空気の暗さ、バプテスマを受けたときのこと………。何度も何度も同じことを祈り、考え、迷いました。迷いながら、「何故こんなに迷うのだろう。エホバの証人は迷ってはいけないのに。」と思い、苦しくなりました。そして、その時ふと、いつも私が祈っていた「本当の神がいるなら、その本当の神を教えて下さい。」と言う言葉が頭に浮かんできたのです。この祈りは、私がエホバを神と信じる前から、ずっとしていた祈りで、何故か、エホバを信じてからも祈らずにはいられなかったものでした。私は、「エホバを信じる私の心は、エホバがご存じのはずだ。私はエホバを信じたいと恩っているのに、こんなに苦しいのは、きっと何となく感じる、エホバの証人の教えに対する不安のせいだろう。今こそ神が、私の長年の祈りに答えて下さるのかもしれない。」そう思って、「聖書の神であるエホバを信じます。その本当の姿を教えて下さい。私の迷いを取り除いて下さい。」と祈りました。



 わたしは、少しずつ少しずつ、自分の心の中を見直すことができ始めていました。それまで、時間も心も余裕がなくて、日々の家事や伝道、集会、そのための勉強に追われるまま、ゆっくりと自分の本当の気持ちを見つめることもなかったのです。本当は、いくつもの疑問や不安があったのに、それを無意識のうちに押さえ込んで、見ないようにしていたのです。それが初めて、自分の心の中を覗いて一つ一つ取り出してみることができるようになっていました。教えの中で、矛盾する部分があったのに、答えを得られないままうやむやになっていた事や、組織に対する不安、つねに緊張していることへの疲れと、それを認めさせない自分、ー方で、今こうした場に追いいやられながら、どこかでホッとしている自分にも気付いていました。ただ最後まで頭にあった、エホバの証人としての姿勢を崩さなかったのは、「ここで草刈先生の言われるままに、心を白紙の状態に戻すことは、エホバを裏切って、サタンの側につくことになるのではないか。」と言うことでした。それは自分だけでなく、家族の、特に子どもたちの命を滅びへと導いてしまう恐ろしいことでした。目の前に、ハルマゲドンで苦しむ子供たちが浮かんでくるのです。



 迷っている私を見て、いつも声を荒げて反対をしていた父が、申し訳なさそうに言いました。「だまして連れてきたことは本当に悪かったと思う。でも、どうしてももう一度考えてみて欲しかったんだ。お前がもう一度学びなおして、それでもエホバの証人をとるというのであれば、もう何も言わない。反対もしない。○○君(主人のこと)も金沢のご両親も同じ気持ちだ。そしてもし、エホバの証人を辞めても、聖書の神を信じて教会に行くと言うのであれば、それでもいい。お父さんたちは、ただとても不安なだけだ。エホバの証人が正しいのかどうか解らないから、この草刈先生とお前との話をどちらも聞いてお父さんも一緒に学ぼうと思う。どうだろうか。」



 私は、そうだ何も草刈先生の話を聞いて、必ずしもエホバの証人を辞めなければならなくなるわけではないんだ。私は、エホバの正しさを主張すればいいんだ。きっとエホバは私を助けてくださる。でも、草刈先生のような方に私がどう立ち向かえるだろう。サタンの思うつぼだろうかといよいよ迷い始めました。そして、父の言葉の中の「聖書の神を信じる」と言う部分が頭の中に響きだしたのです。私は、聖書の神を信じている。草刈先生も信じている。じゃあ、何が違うんだろう。同じ聖書の神を信じているのであれば、エホバは、この話し合いをむしろエホバの姿がよりハッキリするものとして許されるのではないだろうか……。



 父は、最期にこう言いました。「それとお父さんは、子供たちのことを心配しているんだ。将来、お前がエホバの証人として育てて、本当に幸せになるのかどうか。もし万が一エホバの証人が間違っていたら、子供たちの一生は取り返しがつかないのだから。」



 この言葉を聞いた時私は、大きなショックを受けました。自分が心の奥で密かに持っていた一番の不安をバーンとぶつけられたような感じがしました。私は、子供たちが「エホバの証人の子ども」として着々と成長しているのを見ながら、嬉しく思い、一方で本当にいいのだろうかという不安をいつも持っていたのです。けれどもそれは、自分の意思に上がらないよう「エホバの証人の私」がいつもいつも見張っていたことでした。その父の言葉を聞いて私は、、やっと自分の本当の気持ちを認めることになりました。「もしエホバの証人が間違っていたら………。」ずっと心の奥底に押し込めていた不安が私を襲いました。涙がボロボロこぼれ不安と恐れに潰されそうになりながら、どこかで、「やっと楽になれそうだね」と言う声が聞こえました。私はようやく”自分”に戻って、聖書の神を一から求めてみようかと決心しました。

 






<次号へつづく>

(金沢聖書バプテスト教会員 主婦)

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