御言葉メール178
2006年4月15日
「万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。」(詩69の6)
いわれのない逃亡生活を強いられたダビデは、自分に残されたわずかばかりの友が、神を待ち望んでいる自分の為に辱めや失望を味わうような事がないようにと祈っている。最近私は、また一人の信仰の先輩との別れを経験した。
今度も私はこの世に残された。彼は、私より30年近くも多くの年を重ねている。ある意味で当然な事だと割り切れるはずなのだが、なかなかそう思えない。彼の信仰生活は、長い間不治の病という重荷を背負っていた。しかし彼の人柄に接した私にとって、また彼についての人の話を聞く時に、神に望みを置く彼の人生には決して失望を感じることがない。神に望みを置きながらも、召されるまでその病は癒される事がなかった。
それ故人(特に家族にとって)に「信じていてもあのような状態では意味がない。」という思いを抱かせても当然だったかと思う。しかし私は、彼の周りにいる人達からその様な声を、ついぞ聞いたことがない。今、病を負っていてもなお長い間主を待ち望んでいる彼の信仰は、他の人に主に期待し続ける幸いを親しみと暖かさをもって感じさせていた。しかし私の心には、いつもダビデのこの祈りがある。私の周りは神を待ち望む幸いを得ているだろうか。
御言葉メール178
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