金沢聖書バプテスト教会

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御言葉メール166

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御言葉メール166
2006年3月4日
「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩90:17)
この詩篇の冒頭には、「神の人モーセの祈り」とあります。モーセは、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民12:3)人です。
そして同時に彼の生涯は、民が罪を犯し神の裁きの宣告を受けた時、神のみ前に出て民の赦しを願う、とりなしの祈りであった事を思い出します。私は、ここからモーセが「非常に謙遜であった」といわれる理由が、どの様な時でも人々のためにとりなしの祈りをやめない、事だと教えられました。彼は、いつも神により頼んでいました。神により頼む祈りは、神への絶対的な信頼の現われです。
私が、自分の力で(意識していないつもりでも)、「何とかなるだろう。何とかするしかない」といって、とりなしの祈りのないなら、何と傲慢なことだろうか、と思わされました。またモーセは、偉大な民の指導者でした。そして数々の偉大な業をやり遂げました。しかし彼は、自分の全ての業や功績を自分の存在の根拠にはしませんでした。神に自分の全ての業を確かにして下さいと祈って、神が受け入れて下さる様にと祈るのです。私は、そんなモーセの姿に自分の傲慢さを突かれた思いがします。

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