御言葉メール686
2013年6月22日
「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ8の21)
最近、私は健康のために、ウォーキングする事を思い立ちました。周りから、絶対続かないと笑われながら、連続五日続けました。三日も五日も同じ様なものだと結局バカにされて、連続回数は途切れました。が、健康のために絶対必要だと思う事でもなかなかできません。
反対に、ケーキや和菓子などの甘い物は大好きで、ついつい食べ過ぎてしまい、自分の身体に合わせて適当な量を摂るという自制がなかなかできません。自分でも不思議に思うのは、健康のためだとわかっているのにそれができない。胃腸の悪い私は、食べ過ぎると後がひどくなる、と何十年も経験してきたはずなのに愚かにも繰り返す。
身体なら、自分の好みという事で終わらせる事もできますが、神との関係における罪もそうだとしたらどうでしょう。善悪を聖書から教えられ、それに心から同意していても行う事ができない。実はこの姿こそ、神という絶対的な基準の中で人が生きようとした時、見出す自分の姿だというのです。自分の内に悪が宿る、と自覚した時、良い事を行ってではなく、キリストへの信仰こそ神が喜こばれる、と更に教えられるでしょう。