御言葉メール796
2015年9月12日(記:辻嵐桂子)
「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。
私たちを長い間、捨てられるのですか。─
─あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。
きわみまで私たちを怒られるのですか。」(哀歌5章20節、22節)
以前も述べたように哀歌は、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、徹底的に破壊された都の惨状を嘆き歌われたものである。
作者はこの惨劇が、罪に対する神のさばきであることを認め悔いつつも、神に望みを置き、神への訴えを繰り返す。
神は確かに彼の訴えの通りバビロンを滅ぼし、イスラエルの民を解放された。だがそれは、何十年も後のことであった。
哀歌の最後の節である上記の言葉は、作者が未だ出口の見えない闇の中におり、悲惨な状況にあることを物語っている。
聖書は、神の義がどんなもので、罪に対する神のさばきがいかに徹底したものであるかを私たちに教えている。
しかしまた、聖書全体を見るなら、神がどれほど私たちを愛し、あわれみ深いお方であるかも教えてくれる。
私たちが罪赦され救いを得るために、イエス・キリストは私たちの代わりに十字架にかけられ、贖いとなって下さったのだ。
「主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって
私たちに報いることもしない。」(詩篇103篇9、10節)