御言葉メール846
2016年8月27日(記:辻嵐桂子)
「知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮がある。
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(箴言8章12節、17節)
「箴言」は知恵を主題とした書である。1章2節にあるように「知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するため」に書かれた。
しかしこの箇所では、「知恵」そのものが上記のように呼ばわっている。 この擬人化された「知恵」は、昔からキリストを指すものと理解されてきた。
22ー31節では天地創造以前から「知恵」が存在し、神の創造のわざに関与していることが述べられている。これは、新約聖書におけるキリストについての言及と一致する(ヨハネ1:1ー3、コロサイ1:15ー17等参照)。
Ⅰコリント1章24節では「キリストは神の力、神の知恵なのです。」と、キリストと神の知恵が同一であることを示唆している。
ここでは、「知恵」を見いだす者はいのちを見いだし、主から恵みをいただくと言われている(35節)。
私たちが神の恵みを享受し、神の御前に正しく歩み、永遠のいのちを得るために、切に追い求めるべき神の知恵は、人となられたイエス・キリストのうちに具現化されている。イエスを知り、信じることが、神の知恵を得る道なのである。