御言葉メール878
2017年4月8日(記:辻嵐桂子)
「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。
飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ』と言わない。」(箴言30章15節)
この箇所は、蛭を擬人化したり、三つを否定して四つと言い替える修辞法を用い、言わんとすることを印象付けている。
蛭は人や動物の皮膚に吸い付き血を吸う生物で、聖書中ここにしか出て来ない。
すぐ前の箇所では、地の苦しむ者、人のうちの貧しい者を食い尽くす忌まわしい世代が4通りの表現で言及されている。
直接関連付けてよいかわからないが、確かに、あらゆる暴虐と搾取の根底には、強者のむさぼりがある。
この世では、向上心とか上昇思考とかは評価され、時によい結果を生む。
だが、幼い子供が次から次へと新しい玩具を欲しがるように、人の欲求は尽きないものである。
むさぼりは、十戒の第10戒「欲しがってはならない」において禁じられている。
新約聖書にも、「欲がはらむと罪を生む(ヤコブの手紙1章15節)」という御言葉がある。
欲は誰もが抱くものである。しかし、聖書の神を知れば、私たちがどれほど分不相応な恩寵を受けているかわかる。
感謝し満足するということも、私たちは学ばなければいけないのである。