御言葉メール962
2019年1月12日(記:辻嵐桂子)
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章16節)
堕落以来人は、罪故に神の御前に立ちおおせない、(神の一方的あわれみがなければ)神の恵みから切り離された存在となった。
エデンの園でアダムとエバは神の呼びかけに身を隠し(創世記1:8)、イスラエルの民も神の聖所に近づけば死ぬと恐れた(民数記17:13)。預言者イザヤは、神の栄光を見て私は、もうだめだと叫んだ(イザヤ書6:5)。
だがここでは、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんかと促される。それは、私たちにはイエス・キリストという偉大な大祭司がいるからである(14節)。この卓越した大祭司は、私たちの罪を完全に贖い、神との隔たりを取り除いてくださったのみならず、神を私たちの父よと呼ぶ特権を与えてくださったのだ。
祈りとはまさに神に近づく行為。このことの厳粛さを覚えつつ、どんなことでも神に訴え、そのあわれみにすがることができ、惜しみ無く分与される恵みに期待することができるクリスチャンは、本当に幸いである。