御言葉メール964
2019年1月27日
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。イエスは私たちのの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(ヘブル人への手紙6章19-20節)
人生はよく航海する船に例えられる。順風満帆の時もあれば、逆風の時もある。
嵐の時など沖に流され船が難破しないよう固定するのが錨の役割である。
キリスト教が誕生した1世紀、教会にはすでに迫害の嵐が押し寄せていた。そんな中で信仰を保つ錨の役割を果たすのが、主にある希望であると著者は言う。
そしてこの希望は幕の内側に入るとある。
幕の内側とは、大祭司が年に一度、民の贖いのために入ることが許された、あの神殿の垂れ幕の内側(至聖所)を指し、イエス・キリストはすでに先駆けとしてそこに入り、永遠の大祭司となられたのである。
しかもイエスは、同書によれば、まことの聖所(9:12)、人の手で作られた、本物の模型に過ぎない聖所でなく、天そのもの(9:24)に入られたとある。
また、先駆けとして入られということは、その後に続く者たちがいることを示唆してい
る。
クリスチャンの望みは、イエスと同様に天の御国に入れられることである。それはイエスの死によってもたらされ、復活によって確かな確証となった。
迫害の時代でなくとも、私たちの信仰生活も逆境に遭い、嵐が吹き荒れることもあるだろう。
だが神の約束が違うことはない。この希望に目を向け続けるなら、私たちはイエスの愛から決して引き離されることはない。