御言葉メール1024
2020年5月2日(記:辻嵐桂子)
だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。ー(中略)ー人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。(ヤコブの手紙1章13-14節)
ヤコブはこれまで、試練について述べてきた。
試練は私たちにとって辛いものであるが、神は、それによって私たちを信仰者として成長させ完成に導かれる。そして、忍耐の先にはいのちの冠が約束されている(12節)。
しかしここで、話題が誘惑へと転じる。
面白いことに試練と誘惑は、同じギリシャ語の単語で表されている。
確かに、人は試練に遭うと、同時に誘惑を受けるのかもしれない。私たちはしばしば試される。
だが神は、決して私たちを悪に誘惑されることはない。私たちは自分自身の欲に引かれ、誘惑されるのである。
もちろんその背後には、根源的究極的誘惑者であるサタンの存在がある。
だが私たちは、自分自身の内面に、常に罪に傾く性向があることを覚え、抵抗しなければならない。
ヤコブはすかさず「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」と述べ(15節)、私たちに警鐘を鳴らす。
私たちは今、信仰と忍耐を試されているのかもしれない。
試練と困惑の中で、誘惑が機会を得ることがないよう、本当に祈らされるし、何に心を向け、行動すべきか、考えさせられている。