御言葉メール1129
2022年5月28日
「ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。」第一サムエル21の13
私達の歩みは神様が導いておられる、ということをキリスト者は信じています。
ただ、その導かれ方は、自分は何もしないで自動的に、神様がベルトコンベアに乗せられる様にして導かれる、ということではありません。
私達が神様に導かれる、という時、与えられている場所で、神を信じ生き働く、その生活の只中で神が共におられて導いてくださる。
勿論、生活の仕方は様々です。障害や病いのある人、健康な人、老若男女でも違います。
ダビデはサウル王に命を狙われて、逃亡生活をせざるを得なくなります。切羽詰まったダビデは、敵のところへ逃げこみます。
しかし敵にも知られるぐらい有名になっていたダビデは、すぐ見破られ、危険を感じたダビデがとった行動は、狂気を装うことでした。
生き延びるためにダビデは、今までの知恵や機転を用いながら、神様の導きから漏れてしまった様な不本意な偽装をします。
しかし、その様にせざるを得ないダビデをもご存知で神様は、導いておられる。
その導きは悔い改めたり、助けを求めたり、感謝をしたりする神との交わりへと、ますます導かれていくのです。
私達が与えられた生活を送る時、そこに既に神の導きがある、と知ることは何と幸いな事でしょうか。