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救われた証し

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2011年特別伝道集会のO兄の救われた証です。

救われた証し
2011年9月25日(日)

私個人の救われた証しをさせていただきます。

何度目かの「証し」ですが、こうして文章にまとめているだけでも、
初めて信仰を告白した当時より、また過去の証しの機会のときよりも
「何からどのように救われたか」をより豊かに確認することが出来てい
ることに感謝しています。
今回は、集われた皆さんへの証しというよりも、今、自分が信じてい
る聖書の神さまに対するつたない告白になっていることを、あらかじめ
お断りしておきます。

大学生のときに友人に誘われて初めてこの教会に来た頃、私はとても
思い上がった人間でした。小さい頃から我が強い性格で、それまでも人
からの意見など素直に聞いたことがありませんでした。学生だった当時
は、それに加えて自分をごまかしていながら、それでも自分はわりと
かっこよく生きていると考えている人間でした。
自分をごまかすとは、いろいろな問題を抱えていながら、また不安を
持っていながら、自分なら何とかなると、どこかで高を括って困難から
目を背けていたということです。

かっこよく生きているつもりとは、ほんとうは目の前に問題が山積み
になっているのに、そのことをどこか他人事のようにさめた目で見てい
る、それが自分のスタイルだとを思っていたからです。根拠の無い「自
分なら何とかなる」という自信やプライドで、ひとときは不安を無視し
たり、現実の問題や自分の力の足らなさにいらだったりして、心が揺れ
動いていました。
プライドは人一倍あるので、人に甘く見られたくない。でも、現実へ
の無力感も持ち合わせているので、どうとでもなれという無責任な行動
も平然ととってしまう。いつも不安定で情けない、他人にも自分にも面
倒をかけるみじめな毎日でした。
私の内面をよく見ておられる方は、「何だ。今とちっとも変わってい
ないではないか」と言われるでしょう。確かに二十数年前の私も、今の
私もおろかなままで、成長したとは言いがたい状態です。しかし、今の
わたしは変わりました。何が変わったのかと言えば、自分ではなく、歩
んでいる道が変わったのだと感じています。

以前は、自分の真ん中にいつも動かしがたい「自分」が必ずいまし
た。忠告やアドバイスを受けながら、それでもは絶対にさらけださない
ものが心の中にありました。自暴自棄になっている時でさえ、どこか
「自分」に酔っているような気分でした。今、考えればこれが神よりも
自分を愛する「罪」の本質なのだと思わされます。

そんな私が、教会での交わりや聖書の学びを通して教えていただいた
ことは、「神さまがおられる」というほんとうにシンプルなメッセージ
でした。しかし、私はそれを素直に認めることはしませんでした。不安
なときであれ、根拠の無い自信に満ちたときでさえ、それまでの私には
「自分」が全てだったからです。「わたしの生き方を変える私以外の存
在」は、知識として理解できても、まったく従えませんでした。
いくら教えられ、聖書からメッセージを聞いても、いつも私は「自
分」というものから離れられなかったのです。実際には、何も出来てな
いにも関わらず、自分で自分を何とかするということだけは、決して誰
にもわたすつもりはありませんでした。

ですから、神さまが一方的な「救い」を与えられるという御言葉は、
当時のわたしにとって気に入らなかったのです。「救い」という事柄の
なかに自分の役割がまったく入ってこない。主役ではない。自分の出番
がない。世界の中心は自分ではなく「神さま」であるという
この聖書が教えようとする内容は、長い間わたしをかたくなにさせまし
た。
しかし、この「救いに関しての全責任を神さまが背負ってくださる」
という同じ真実が、そんな私を解放してくれたのです。
ある日、すでに神さまを信じていた友人との会話のなかで、私はかた
くなに「これほど話し合っても神さまを信じれないのは、自分には罪が
あるからだ。」と言い張っていました。

その時、彼は「それを気付かせてくださったのが神さまではないの
か」という意味の言葉を返してくれました。
一瞬のことでしたが、私は友人の言葉がほんとうのことだと驚きなが
ら納得しました。そして私の知らないうちに、すでに自分をそのように
罪を告白する者へと変えられた神さまがおられることに感動を覚えたの
です。
そのあと、私は牧師に電話を掛け「イエスさまを救い主として信じま
す。」とたどたどしく告白したのです。
あの時、私の心は砕かれましたが、それをくやしいとは思いませんで
した。全部を背負い込んだつもりで、それでも自分を救えないと分かっ
た敗北感があったはずですが、救いに関しての重荷が消えた喜びの方が
大きいものでした。自分の心の中に「救われたことを喜んでいる」とい
う思いがあったことがほんとうにうれしかったのです。

自分のことしかなかった罪人のわたしのためにイエスさまが身代わり
として十字架にかかってくださったことが、どれほどのことなのか。い
まも教えられ続けていて、ほんとうにすこしづつですが学んでいます。
苦しみはありますが、以前のような何も分からない状態とは確かに違
います。以前は「どこにいくのか」「何をすべきか」「何が良いことな
のか」、そのすべてに自分だけで立ち向かおうとあがき、しかも何も為
せない死んだ者でした。
自分が自分の主人でありたいと縛られていたときは、ほんとうにただ
苦しみに飲み込まれていました。しかし今は、一番すばらしい主人をも
つ僕として、平安をいただいています。しかもイエスさまは十字架にか
かれれた後、三日目に蘇られました。このことにおいても、私のかわり
にはっきりとした勝利を得てくださっていることに心から喜びを覚えて
います。そしていま、イエスさまは天におられるのですから、わたしの
この今の歩みだけでなく、死んだ後の歩みまでも支えてくださっている
わけです。

もう一度告白しますが、私は若い頃と何も変わってないように思えて
います。愚かなままですし、神さまの喜ばれるような僕でもありません。
しかし、私は良い主人に召し出され、その主人は私の父ともなってく
ださいました。いま私は昔のようにひとりではなく、父の憐れみの中で
生かされ働いているものです。しかも私は自分に振り回されても、すぐ
に諭され「ここにいなさい」と安らかな場所に導き出され続けていま
す。イエス・キリストを通してのその保証はこのような者の中に確かに
在ります。そのようなわけで、外からはどうのように見えていても、私
は主にあって幸せな者です。

メシヤをお迎えする備え

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メシヤをお迎えする備え(マタイ3章7~12節)
 バプテスマのヨハネ(ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていた)がユダヤの荒野で活動を開始したのは「皇帝テベリオの治世の第十五年」(ルカ3章1)です。ここでヨハネは主の伝統的な預言者と同じく〈悔い改め〉(2節)を説いていました。その悔い改めのメッセージを説いていた理由は〈天の御国〉が到来しようとしていたからです。マタイの福音書において多く見られる〈天の御国〉という表現は「神の国」と同じ意味です。〈天の国=「神の国」〉は、神の「主権、支配」のことです。このような神の国の到来を、ローマからの解放と神の民による支配の実現と理解しているユダヤ人にとっては、神を知らない異邦人こそが悔い改めるべきで、自分たちはアブラハムの子孫であり、神の律法をもっている神の選民だから悔い改める必要がないと思っていました。ヨハネはそのユダヤ人に対し、悔い改めるよう求めたのです。約七百年前イザヤが預言(イザヤ40章3)して語った〈主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ〉と〈荒野で叫ぶ者の声〉(3節)とは、実にこのヨハネのことだったのです。
 また天の御国の到来は、主の到来でもあり、その〈主〉はイエスのことです。一方、バプテスマのヨハネの服装は、旧約の預言者エリヤを想起させ(Ⅱ列王記1章8)るものでした。彼は、「ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1章6)と福音書は証言しております。そのヨハネは神の道を備え、救い主を直接、世に紹介した預言者中の預言者です。イエスが神の約束されたメシヤであることを証しすることほど大きな働きはないのです。私たちキリスト者はその存在自身がキリスト・イエスの救いを証ししているはずです。
 ヨハネのメッセージを通してユダヤやヨルダン川流域の人々が大勢罪を告白し、バプテスマを受けました。彼の授けるバプテスマは、レビ記11章~15章の規定とは異なっています。彼のバプテスマは、一回的なものでした。また彼は、ユダヤ人に要求しております。ですから彼のバプテスマは、ユダヤ教への改宗者に授けるバプテスマと異なっています。
 ヨハネの授けるバプテスマ志願者の中に〈パリサイ人やサドカイ人〉(マタイ3章7)がいました。〈パリサイ人〉は律法を生活に適用するため、ハラカーと呼ばれる口伝の律法を生み出し、それを守らない者から自らを分離するところから「パリサイ派(分離派)」という名称の起源が出てきたと言われています。彼らは、エルサレムの最高宗教議会(サンヘドリン)では少数派でしたが、民衆の間では大きな影響力がありました。一方〈サドカイ人〉は、エルサレムの神殿に基盤を持つ裕福な祭司階級で、議会では多数派でした。指導者である彼らに共通している罪は、まむしの毒のように危険なものでした。ヨハネは彼らに悔い改めにふさわしい〈実〉(マタイ3章8)を求めました。最後の審判には、先祖アブラハムの徳に頼ることが出来るとする彼らの特権意識(血筋)を全く否定したのです。このヨハネをメシヤ(キリスト)と考える人々もいましたが、彼は自分はあくまでも先駆者で、自分がしもべとして仕える価値もないほど偉大な方が後に来ると証言しました。その人は、人々の悔い改めのための〈水のバプテスマ〉よりもっと力のある〈聖霊と火とのバプテスマ〉を授ける(マタイ3章11)ことができるのです。ヨエル2章28~30節の預言のように人々に聖霊を注ぎ、生活をきよめ、新しい力で満たすことのできる方です。この来るべきメシヤは実の有無に従い厳しいさばきを行う、とヨハネは告白し、神の真実を明らかにしました。

 そして今年は、11月27日から主の来臨を待ちわびる霊的、日常的準備の期間を「アドベント」と呼びます。この「アドベント」という言葉の直接の意味は「来臨」、「接近」、「出現」などです。主イエスが人となってこの世に来られた受肉来臨されることを指します。またこの言葉は、終末があることとキリストの再臨において行われる完全なる裁きを待ちわび、霊肉共に準備する意味にも用います。時期は十二月二五日の四週間前の日曜日から二四日間での期間をアドベント(待降節)と呼びます。この頃からクリスマスに向けて本格的に準備を始めます。そしてこの「アドベント」期間にクリスチャンの各家庭では、アドベント・カレンダーなどを作ったり、購入したりして「カウントダウン」を楽しむ人たちもおります。
 また今朝礼拝において主の晩餐を行います。キリスト教会のカレンダーでは、この日からを一年の始まりとする習慣があります。今朝の主の晩さんは、特にこの待降節を覚えて行います。この主の晩さんには、イエス・キリストが私たちの救いのために十字架について贖いとなられたことを覚え、記念する(Ⅰコリント11章23~26節)という(贖罪的)意味がありますが、それだけではありません。次のような意味と目的があるのです。
 (2)主の晩さんの聖化論的理解  Iコリント10章16節には、二度「あずかること](コイノーニア)という語が用いられています。この箇所でパウロは、コリント教会に起こった、偶像問題を指導している中で「祝福の杯」と「裂かれたパン」にあずかることは、「キリストの血」と「キリストのからだ]にあずかることだと述べています。キリストと主の晩さんにあずかる者とに奥義的、霊的一体性があることを示唆しています。さらに、共にパンを裂くことは、主の晩さんに預かる教会員相互の結合をもたらすものでもあります。つまり主の晩さんに預かるということは、神と人との個人的であり人格的信仰的交わりの回復とともに、人間相互のキリストの体としての教会的交わりを自覚します。
(3)主の晩さんの再創造論的理解  主の晩さんの再創造論的理解とは、イエス・キリストが神であられるのに人となられた(受肉)という驚くべき神の謙遜を基盤にして、神の救いのご計画を全披造物にまで広げル、と言う理解を指します。つまり、肉体をもたれたイエスが十字架で死なれ、肉体を持って復活されたことによって、私たちの肉体を持っての復活に希望が与えられることを言います(コロサイ1章27節、ローマ8章17節)。クリスチャンたちの肉体を持っての復活をまた永遠のいのちを得るということでもあります。そしてこのキリストの復活と再臨は、人間だけではなく、すべての被造物の希望でもあるということなのです。主の晩さんはこの望みを与えるという意味があり、目的なのです。
(4)主の晩さんの終末論的理解   マルコとマタイは、杯について言及された後に、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われたことを記して、終末における「神の国」の到来の切迫性を伝えます。やがて確実に訪れる終末における主の晩さんが、キリスト者との交わりとしての祝宴であることを示唆します。Iコリント11章26節では、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とありますので、これは終末論的であると同時に、宣教的意味がこの主の晩さんにはあることが理解できます。

キリストの模範に習うものとなれ

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キリストの模範に習う者となれ








 イエスは、幼いころヨセフ・マリヤとその家族と過ごしたナザレという町に行かれました。イエスは、その町の会堂において聖書が渡された時、イザヤ書イザヤ六一章一〜三節「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」を朗読しました。そしてイエスは宣言しました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と。イエスは、イザヤ書のこの言葉は全くそのとおりの出来事として起こった、とご自分にあてはめて語られたのです。



 幼いころのイエスもその家族も知っていた人々にとっては、思いもよらない時であり、思いもよらない事柄でした(「この人は、ヨセフの子ではないか(二二節)」)。しかも預言された約束が思いがけない形で実現したというのですから、本当に驚きでしかありませんでした。つまりこのイエスの言葉は、この日から「主の恵みの年」(十九節)が始まったという事なのです。この「恵み」は、律法用語で「供え物」の「受け入れ」(レビ一章三節)を表す言葉なのです。従って「恵みの時」とは、神に献げものとしての祈りが受け入れられる神の恩寵のときが到来したことを告げたのです。神に受け入れられる恵みの時代が、この時始まったというのです。

その告知を「福音=良い伝令の布告」(十九節=主の恵みの年を告げ知らせるために)といいます。イザヤ書で言う福音とは、「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」という内面的自由です(「解放・赦免」とは、ヨベルの年の解放に用いられる=レビ記二五章十節、エゼキエル四六章十七節)。



 更に別の言い方をすれば、苦しむ者が本来の自己を取り戻し、自由を味わう時代が始まったと語られたのです。



 しかし、この良きおとずれの伝達者である「この人は、ヨセフの子ではないか」。ただの私の知っている人ではないか、というのです。そして実際、今の私たちの生活は、全て「いつもの通り安息日に会堂にはいり」(十六節)というものだと言うのです。そうして人々は、救い主をお迎えする事ができないで、躓いてしまったのです。神の御旨と人の意識がずれるのです。つまり私たち生まれつきの肉の目には、いつもの通りとしか映らない住み慣れた世界であり、常態と思われる中でも信仰によって見る目には、主の日であり、救いの時の到来と見えるのです。私たちは、自分の視点を移さなければなりません。自分の世界や自分の考え方でしか物事を見ないならば、視点は変りません。その人は、神の御旨と御手を知る事も見ることもできないでしょう。



 ですから私たちは、次の聖書の御言葉を心に留めなければなりません。そして全く違った立場と、見方に立っていることを自覚しましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント五章十七節)何故ならキリスト者とは、「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Ⅱコリント五章十五〜十六節)」と告白した者なのですから。

全てが神の御手の中にある

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全てが神の御手の中にある









 「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(エペソ一章十一節)



 私たちが生きている「いのちの現場=現実世界」は、様々な事柄(喜び・楽しみ・事故・災害・病・飢餓・暴力・犯罪・戦争・恨み・嫉み等)が起こります。「どうして!」と絶句してしまうほどの悲しみを味わうことが起こります。これらは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられたクリスチャンにも起こります。その時私たちはどう理解するでしょうか。嬉しい事を神様に忠実に従っている褒美としての祝福である、と自分の功績に対する報いとするならば、逆に「このような悲しい辛いことばかりがクリスチャンである私に起こるのは、きっと神の前に不従順だったから、裁きか懲らしめまたは呪いが起こった」とすることでしょう。その方は、神の主権も力も知らないのです。そして私たちは、神の力も聖書も知らない事になるのです(ヨブ記参照)。



 聖書は、神はすべて世に起こってくる出来事をご存知だと教えています。そして私たちのうちに起こってくる全ての事は、罪を別にしてその御旨の内に初めからあったことと教えます。全ての出来事は(私たちは知りえないことばかりですが)、神の永遠のご計画(聖定)と無関係に存在することは一つないと信じます。



 これは、運命論や宿命論・偶然論や決定論とは全く違います。これらは、人格的な交わりをもたらす存在はなく、原理や法則があるだけです。そこからは、未来に対する期待や望みを持つ余地も、思いも与えられないのです。ただあるのは、起こってしまった出来事に対する厭世的な諦めしかないのです。



 神の深い永遠のご計画(聖定)とは、世界と歴史と人生の中に生きて働く無限の人格神との深い関係を教えているのです。神の御性質(全知・全能・善・義・公正・聖性・愛・憐れみ等)の富んでおられるお方との関係(人格関係)なのです。神の永遠のご計画に気まぐれはありません。そしてその御計画は、神ご自身の栄光をあらわす為のご計画なのです。そして神が、ご自身の栄光を求められるのは、利己的であり誤ったことではないのです。神は万物の創造者であり、万物は神の栄光の為に存在させられたのであり、存在しているのです。人間が他の全てのものに勝って自己自身の栄光、満足を追及するならば、それこそが利己的であり間違ったこと(原罪そのもの)なのです。私たちのうちに与えられた全てのことについて、偶発的とか偶然とかいわれるものはなく、神の栄光をあらわすべく神が用意されたものなのです。ですから、私たちにふさわしい姿勢は、全て起こってくる出来事をただ神の栄光の為になすべき事をただなすだけなのです。それが、人間存在の原点(生きるという事)です。


礼拝の聖書的理解を求めて

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礼拝の聖書的理解を求めて

(霊とまことにおける礼拝)より参照









 以前に私たちは、礼拝は人間の側からの行為ではなく神から差し出され導かれる神の行為であると結論しました。このことをもう少し聖書解釈から確認します。



 ヨハネ福音書四章二三〜二四節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。ここで、用いられている「霊=プニューマ」「真理=アレティア」と言う言葉の持つ意味について知ることは大切なことです。私たちは礼拝の中で「霊と真理(まこと)をもって礼拝する事ができますように」と祈ります。この時の霊と真理(まこと)は、私たち人間の側の霊とまことについてでした。今まで多くの場合この聖句は、私たちが礼拝を献げる私たちの霊性であり真心であると理解しておりました。しかし実はそうではないのです。



 ヨハネの福音書では、まことが神の真理という意味以外には用いられている例がありません。ヨハネ福音書十四章六節のでイエスが言われている「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(の「真理=アレティア」は四章二三節の「真理」と同語)は、真理であるイエスを通さなければ、誰も父なる神のもとに来る事はできないと言うのですから、礼拝においても人間の側の霊では、父なる神を礼拝できないと言う事なのです。更にイエスによらなければ、神の国を見ることもできないと言うのがニコデモに語られたイエスのお言葉でした。



 従ってヨハネ四章二三節の真の礼拝を支える基盤としての霊と真理(まこと)」とは、人間の側の事柄ではなく、神の側の「霊と真理(まこと)」のことだと言う事ができます。その意味でヨハネ四章のこの箇所は、御子を通して、人が神に近づくこと、神を知る事、神と交わる事、そして神を礼拝する事が許されるという時が来ると言う宣言なのです。従ってここで礼拝とは、神ご自身が主体的導きの御手をもって、神の主権を持って、神ご自身の側からの働きかけとして神が完成される神の業だと言う事なのです。ですから礼拝は、神の恵みによって私たちに与えられた特別なものなのです。故に人間中心の神礼拝は、聖書が教える神礼拝からはおおよそかけ離れたものとなってしまうのです。確かに礼拝者への配慮を失った礼拝は形式主義に陥ってしまい、冷たい礼拝プログラムをこなすだけの礼拝になり下がってしまうことでしょう。けれども礼拝を献げることが許されていると言う事に対する自覚の足らなさ、自己中心的な気まぐれで、礼拝に参加してやっていると言う傲慢な礼拝姿勢について何の問題意識も感じない事の方がはるかに大きな問題ではないでしょうか。



 またこの世と調子をあわせてはならないとローマ人への手紙の中でパウロは警告しております。それは、私たちが神に喜ばれる霊的な礼拝を献げる為です。この姿勢は、日曜日に礼拝の為に一堂に集まってなされる礼拝のことだけでなく、日常生活におけるクリスチャンのあり方を教えています。神を意識し、神の御前において自分の心が、言葉と行状が、ふさわしい者となっているかどうかを問うと言う事です。この生活姿勢が全く無視されているならば教会での礼拝は、その礼拝者にとって人間を中心とした礼拝(自分を楽しませ、気分を良くさせるもの)でなければ、きっと魅力を感じなくなっていることでしょう。私たちは、神をあかしする事を喜びとする民なのです。


試練と賞讃

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試練と賞讃









 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(Ⅰペテロの手紙一章七節)



 私たちは、苦しみや試練をいつも嫌なもの、何の価値もなく意味もない事と思っていないでしょうか。ペテロは、信仰の試練の厳しさを、少しでも割引して考えたりする人ではありませんが「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ四章一)とその価値を語ります。そのペテロが、試練に対するキリスト者の究極の勝利を宣言した言葉が冒頭の聖句です。また私たちの受ける苦難が、信仰の試練と呼ばれるのは、私たちが極度に圧迫されて、もはや自分自身の力で生きる望みを全く失い、死人を甦らせる神を信じる信仰によってのみ生きるか、それとも死の恐怖の虜となって、信仰を放棄してしまうかのぎりぎりの線まで、追い詰められるからです。生きる望みが少しでも自分の手の中にまだあると思える間は、その試練はまだ本格的なものとはいえないと言えるのではないでしょうか。



 私たちが、生きる望みを全く失い、心の中で死を覚悟しながらも死人を甦らせる神を信じるとすれば、この私たちの信仰を打ち破ることの出来る力は、もはや何一つありません。何故なら、死に優る苦痛はないし、死に優る恐怖もないからです。ですから死に直面しながら、尚それを乗り越えて、生き続けるものこそ、ペテロの言うとおり、「火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」ものに違いありません

。キリストは、この死に対して完全な勝利をされた方なのです。これが、永遠のいのちの主です。



 こうして試練によって練られる度に、勝利に導かれた信仰は、私たちがこの世において、未信者が決して手にすることのできない、また目で見ることの出来ない素晴らしい信仰の財産です。火で精錬された金よりも尊い財産なのです。



 しかし、信仰の勝利が完全に明らかにされるのは、イエス・キリストの再び来られる時です。その時私たちキリスト者は、その信仰の讃美をほかならぬキリストから、直に受ける事になります。私たちは、神がキリストに与えた栄光をキリストから与えられるのです。これが、苦難に続く栄光の素晴らしさです。



 更にキリスト者の光栄とは、私たちのために苦しみを受けた、キリストの御足の後を踏み従う事にほかなりません。私たちの全人格、全生涯をかけて、キリストの苦難をまねる(倣う)ことではないでしょうか。しかしこれは、やがて彼の苦難と共に、苦難に続く栄光にも預かる事です。あなたは、キリストの苦難の足跡に従うことを厭うのでしょうか。このような苦難な道を避け続けて、何かもっと安易は道を選ぼうとするのですか。それは、実現不可能な望みだと断言するしかありません。何故ならあなたは、キリストの苦難を避けることができても、それによって苦難そのものを避ける事はできないからです。それどころか、あなたは、キリストの苦難を避けたつもりでも、実はこれよりも更に困難な、逃げ場の無い、欲情の泥沼に落ち込むよりほかに無いことを知らなければなりません。



 しかし私たちが、持ち前の弱さ、愚かさ、罪深さの為に、或は私たちの受ける余りの激しさ、辛さの為に、時にキリストを忘れ、時には離れる事があろうとも、キリストはいつも、いつまでも一緒にいて下さる(インマヌエルなる主)なのです。



教会が教会であるとは

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教会が教会であるとは









 私たちが日曜の主日ごとに礼拝を捧げている神は、父・子・御霊という統一性と多様性という栄光によってあらわされる三位一体の神です。教会とは、私たちがこの神を礼拝するとき、神を真に礼拝する礼拝者となり、キリストの体(教会)として一つとなった礼拝を捧げる民の集まりです。私たちの礼拝は、誤った動機(恵みを引き出す為)や礼拝をしてやるといった傲慢なものとなってはなりません。



 私たちの集まりは、日曜日の朝、死と黄泉とに勝利され、私たちの救いの保障となられたイエスの復活を記念して礼拝するのですから、出席できる時にだけ出席すればよい、という程度の軽いことだとは思っていない人たちの集まりです。自分の予定にあわせて礼拝に出ればよいということは決してないはずです。



 この主日礼拝がどれほど大切かは、旧約聖書の安息日(モーセの十戒)と深いかかわりがある事からも分かります。この十戒は、エジプトからの解放(救い)の条件として与えられたのではなく、新しく住むカナンの地での歩みを導く指針として与えられたものです。つまり今日的には、新しくキリスト者としてこの世の中を歩む為の神からの指針なのです。旧約の民は、安息日の丸一日(夕方〜翌日の夕迄)を時間的にも空間的にも神を礼拝する以外のことはしないと定めて守りました。この安息日を破って、石打ちの刑罰を受けた者がいました。彼は、薪を集めていたのです(民十五章二九〜三二・出三一章十四節)。神の安息を侮って、畏れないからです。



 教会に集う私たちは、この安息日(影)がイエス・キリスト(本体)によって、完全に成就されたと告白視します。罪のための犠牲をささげるという祭儀行為は、イエスという完全な生贄が捧げれて成就したのです。今日私たちは、罪の赦しとしての犠牲を献げる必要は全く在りません。神を礼拝すると言う普遍的な面は、キリスト再臨(安息の完全な成就)まで続け(有効な)て証しするところが教会です。



 ですから主日を守るということは、礼拝の時間(一時間半前後)だけ(しかも朝夕どちらか)を守ればよいとしないのです。礼拝出席できない時は、本当に最善を尽くして(一週間をその日の為に備えて)も残念ながら欠席せざるをえないという事なのです。そして礼拝の一部しか出席できなかったことを悔い、またその一部でも礼拝が赦されたことを神に感謝するのです。



 さらに極端な誤った主日理解は、「説教だけ聴けばそれで主日を守った]]とすることです。この誤った主日理解は、説教に間に合いさえすればよいと判断させ、遅刻を罪と感じさせなくしてしまいます。今日の教会が、キリストの教会である為には、主日をそれほど重大なものであるとの自覚をもつことが、とても大切なのです。


キリストの心を心とする 2

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キリストの心をこころとする 2








 私たちが神を礼拝するのは、この神だけが人間の礼拝を受けるにふさわしい方だからです。この神は、今も生きておられる神です。そしてこの神は、他と比べることのできないお方、聖なる方です。このお方は、創造主にして、唯一の贖い主です。この方は、三位一体の神であられるゆえに、御霊を通して、私たちを神の御前に出させてくださいます(ロマ八章十五節)。ですから、私たちが礼拝のために集えるのは、許された故で、私たちに与えられた最高の祝福なのです。



 従って、私たちが礼拝を献げるのは、自らが慰められる為ではありません。また自分が癒され、平安を得ることが目的ではないことを理解する必要があります。私たちが礼拝を献げるのは、神が主なる神であるがゆえにするのです。



 また私たちが、礼拝できる事に喜びと平安・慰めを覚えないとき、神が悪いとするのでしょうか。そうではありません。神を礼拝できる事に最高の価値を覚えない、私たちの誤った利己的な幸福感、価値観という人間中心の思いが問題なのです。イエスは、私たちの誤った幸福感について(ルカ六章二〇〜二六)教えます。



 1、「富んでいるあなたがたは、哀れな者です」。「富んでいる」という事は、一般に幸福とされています。しかし、「富んでいる」為に神からの慰め(神の国に入ること)を求めないならば、神の国に入ることがでず「哀れな者」なのです。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」(十八章二一〜二六)とイエスがが言われたくらいに難しいのです。何故なら富める者は、「慰めを、すでに受けているから(領収済み)」です。「領収済み」の時に契約は終わり、神との関係も切られている状態なので、哀れむべき者なのです。



 2、「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です」。「食べ飽きている」と眠くなり、精神が弛緩するのは世の常です。それで、魂の糧である「いのちのパン」としてのキリストに対する必要を感じなくなるので、彼は哀れです(ヨハネ六章三五)。



 3、「笑っている(ゲラゲラ笑う)」大爆笑は、平常心のバランスの崩れた時に起こります。その平常心の破局は、たちまち不安に陥れる危機的精神状態を引き起こします。「悲しみ泣く」とは、空しさを知るしかないというイエスの人間理解です。



 4、最大の哀れは、「みなの人にほめられるとき」です。「人」の称讃を気にして、平安でもないのに「平安、平安」と叫ぶ人気取りの「偽預言者」に成り下がっているからです。人に受け入れられる事ばかりを考えて、神に聞かなくなるからです。



 主は、これをほかでもない「あなたがた」であるクリスチャンに語られました。つまり、「主よ、主よ」と口先だけで呼ぶ偽信者、「平安、平安」と語る偽預言者になっていないかを、クリスチャンに自己吟味させたのです。クリスチャンの自己満足と現状肯定の(この世の価値観に支配されている)姿を指摘しています。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみ じめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」 (黙示三章十七)

 

神の御こころと人の思いは異なることが多い

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神の御こころと人の思いは

異なることが多い








 信仰告白又はキリスト教教理において聖書的であっても、実践において、異教的であったり、非聖書的であったりすることがあります。具体的には、正しく告白していても実際生活においては、背に腹は代えられないと言って、神に委ねようともしない事です。また神のお言葉に何も制約されない考え方と生活態度をとることが出来るということです。神を中心としているのか、自分の心を中心にしているのか、神に喜ばれることを大切にしているのかを、良く吟味しなければなりません。例えば、私たちが、救い・悔い改め・成長等は、神がなしてくださると告白します。しかしあれでもクリスチャンかと主にある兄弟を非難するならば、み言葉に立っていないのです。



 私たちは、このような姿勢(信仰生活)に少しも違和感を感じない位に、聖書から遠ざかっていないでしょうか。私たちは、聖書を学びながらも、神よりも世を基準とした生活になっていないか、自己吟味する必要があります。



 私たちが、実際生活において、信仰生活が貧しくなるのは、聖書を学ぶからではなく、実際生活と聖書の学びを、全く別のものとしてしまうからです。ですから、聖書理解と実際生活とが一致しないことに悲しみを持つべきなのです。



 聖書を学ぶことは、信仰生活を体系化し、確立させることです。聖書を学ぶ事の目的は、聖書の教えに従って生きるという事がどういうことなのかを考えることであり、知ることなのです。神の側に立った視点でこの世を見る事です。つまり聖書的世界観を持つことです。私たちは生まれながらの罪人ですから、自分の視点は、いつも罪の影響を受けたものとなっている事を自覚しましょう。つまり様々な間違った考え方、歪んだものの見方をしているのが私たちなのです。クリスチャンになったからといって自動的に、神の視点(聖書の価値観や見方)を持てるわけではありません。



 むしろクリスチャンとして生きる為に、自分の歩み、考え方、感情、それらを吟味しなければなりません。自己吟味しただけでよいのではありません。クリスチャンとして生きるとはどういうことなのかを、指し示す方向性を理解しなくてはなりません。その方向性を持たせる(その為には神の御旨を体系的に理解する必要があります)のが、聖書を学ぶ(神学する)という事なのです。これが欠けると私たちは、知らず知らずのうちに異教世界の習慣や文化、感覚、感情に支配されて、神の御こころを行っていると信じながら、聖書と違った生活をしていることがあるのです。そういう信仰者生活は、キリスト教的装いを一部しているだけとなってしまうのです。



 次に異なる教え(異端やこの世の哲学など)を見分ける為に聖書を学ぶ必要があります。この時代は、本当に数多くの教えや考えがあります。又感覚があります。そしてそれは、吟味する時間もなく、次から次へと洪水のように押し寄せてきます。実際に現代人は、情報の洪水に押し流されています。そして藁を掴んで、沈んでいくのです。キリスト者は、しっかりとした岩の上にたっていなくてはなりません。ここに岩があることを指し示さなくてはなりません。これが、証しなのです。何が正しく、何が誤りで、何が必要で何が必要でないかを判断する為に聖書の学びが必要なのです。

キリストの心を心とする 1

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キリストの心をこころとする1









 クリスチャンにとって一番大切なことは、神さまに心が向いている事です。礼拝とは、「拝む事」と礼拝論で学びました。神さまだけが最高に価値あるお方、大切にするべきお方として認める行為だといえます。ですから私たちが、神さまに心を向るのに妨げとなること全てが、キリスト者として相応しくないものです。たとえそれが自分の生活や、気分を良くするものと思われるてもです。逆に、私たちの心を神に向かわせ、神にのみに期待と信頼を向けざるをえなくするものであるならば、全てがよい事なのです。その為に、私たちの心を苦しめたり、悲しい結果を招く事であってもです。それが、私たちの心を神さまに向かわせるきっかけであったり、動機となるならば、決して惨めで、不幸な状態にいる哀れな者とは言わないのです。それが、ルカ福音書六章二〇〜二六節にある「幸い」と「哀れな者」についてのイエスの教えです。



 更にイエスは、クリスチャンの対社会的との関係について教えます。クリスチャンたちの愛の実践についてです。その業とは、①「敵を愛」する事と「憎む者に善を行な」(二七節)う事。②「のろう者を祝福し」「侮辱する者のために祈り」る事(二八節)。 ③どんな理不尽な事であっても受け入れる事(二九節)。 ④「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのように」(三一節)する事。 何故なら「自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしてい」るからです(三三節)。つまり、愛の行為とは、物々交換か、その場限りの一時しのぎ的行為ではないのです。私たちの姿勢は、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(三六節)にまとめられます。



 イエスが言われた「あなたがたに何の良いところがあるでしょう」(三二、三三、三四)とは、「あなたがたにどんな神さまからの恵みがあるだろうか」という意味です。私たちは、本当に神さまからの「よい恵み」を頂くための働きをしたいものです。ですから、私たちが心に留めなければならなことは、人には恵みを施すだけで、人からの見返りを期待しない愛の業についてです。私たちが、この地上で既に恵みを受け(満足し)てしまわない為です。イエスは、「あなたがたの受ける報いはすばらし」い、と言われました。私たちが、このいと高きお方から受ける報いとは、「いと高き方の子どもにな」るというものです。無論、既に神の子です。ここで言われている「いと高き方の子どもになれ」るとは、神と似た性質の者になれるということです。「あわれみ深くしなさい」との勧めを実行することにおいて、憐み深い天の父に似る者とされるという報いです。神の証人とされるという報いのなのです。



 しかし、「私には無理」という心の声がします。私たちには、本当に無理なのでしょうか。私たちは、どれだけ人から受ける恵み(人の称讃、富、名声、快適な暮し・等)を手にして、神さまからの価値ある恵みを失って来たでしょうか。聖書の中には、神さまの恵みを軽くみた為に、悲惨な状態に陥った哀れな人たちがいます。例えば、一杯の食べ物と神の祝福を交換したエソウ、銀三〇シケルでイエスを裏切ったユダ等です。彼らは、罪の報酬は、死と呪いであると知りながら、世が与える一時的な恵みを愛して、滅びと裁きをその身に招

いたのでした。しかし、逆にこの世において、全く割りの会わない愛の犠牲を払われた方を知っております。その方は、罪人の身代わりとなって死なれて、復活後多くの実を結ばれたのです。そして彼は、最高の栄光を受けたのです(ピリピ二章九,十節)。

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