礼拝の聖書的理解を求めて
(霊とまことにおける礼拝)より参照
以前に私たちは、礼拝は人間の側からの行為ではなく神から差し出され導かれる神の行為であると結論しました。このことをもう少し聖書解釈から確認します。
ヨハネ福音書四章二三〜二四節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。ここで、用いられている「霊=プニューマ」「真理=アレティア」と言う言葉の持つ意味について知ることは大切なことです。私たちは礼拝の中で「霊と真理(まこと)をもって礼拝する事ができますように」と祈ります。この時の霊と真理(まこと)は、私たち人間の側の霊とまことについてでした。今まで多くの場合この聖句は、私たちが礼拝を献げる私たちの霊性であり真心であると理解しておりました。しかし実はそうではないのです。
ヨハネの福音書では、まことが神の真理という意味以外には用いられている例がありません。ヨハネ福音書十四章六節のでイエスが言われている「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(の「真理=アレティア」は四章二三節の「真理」と同語)は、真理であるイエスを通さなければ、誰も父なる神のもとに来る事はできないと言うのですから、礼拝においても人間の側の霊では、父なる神を礼拝できないと言う事なのです。更にイエスによらなければ、神の国を見ることもできないと言うのがニコデモに語られたイエスのお言葉でした。
従ってヨハネ四章二三節の真の礼拝を支える基盤としての霊と真理(まこと)」とは、人間の側の事柄ではなく、神の側の「霊と真理(まこと)」のことだと言う事ができます。その意味でヨハネ四章のこの箇所は、御子を通して、人が神に近づくこと、神を知る事、神と交わる事、そして神を礼拝する事が許されるという時が来ると言う宣言なのです。従ってここで礼拝とは、神ご自身が主体的導きの御手をもって、神の主権を持って、神ご自身の側からの働きかけとして神が完成される神の業だと言う事なのです。ですから礼拝は、神の恵みによって私たちに与えられた特別なものなのです。故に人間中心の神礼拝は、聖書が教える神礼拝からはおおよそかけ離れたものとなってしまうのです。確かに礼拝者への配慮を失った礼拝は形式主義に陥ってしまい、冷たい礼拝プログラムをこなすだけの礼拝になり下がってしまうことでしょう。けれども礼拝を献げることが許されていると言う事に対する自覚の足らなさ、自己中心的な気まぐれで、礼拝に参加してやっていると言う傲慢な礼拝姿勢について何の問題意識も感じない事の方がはるかに大きな問題ではないでしょうか。
またこの世と調子をあわせてはならないとローマ人への手紙の中でパウロは警告しております。それは、私たちが神に喜ばれる霊的な礼拝を献げる為です。この姿勢は、日曜日に礼拝の為に一堂に集まってなされる礼拝のことだけでなく、日常生活におけるクリスチャンのあり方を教えています。神を意識し、神の御前において自分の心が、言葉と行状が、ふさわしい者となっているかどうかを問うと言う事です。この生活姿勢が全く無視されているならば教会での礼拝は、その礼拝者にとって人間を中心とした礼拝(自分を楽しませ、気分を良くさせるもの)でなければ、きっと魅力を感じなくなっていることでしょう。私たちは、神をあかしする事を喜びとする民なのです。
ヨハネ福音書四章二三〜二四節に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。ここで、用いられている「霊=プニューマ」「真理=アレティア」と言う言葉の持つ意味について知ることは大切なことです。私たちは礼拝の中で「霊と真理(まこと)をもって礼拝する事ができますように」と祈ります。この時の霊と真理(まこと)は、私たち人間の側の霊とまことについてでした。今まで多くの場合この聖句は、私たちが礼拝を献げる私たちの霊性であり真心であると理解しておりました。しかし実はそうではないのです。
ヨハネの福音書では、まことが神の真理という意味以外には用いられている例がありません。ヨハネ福音書十四章六節のでイエスが言われている「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(の「真理=アレティア」は四章二三節の「真理」と同語)は、真理であるイエスを通さなければ、誰も父なる神のもとに来る事はできないと言うのですから、礼拝においても人間の側の霊では、父なる神を礼拝できないと言う事なのです。更にイエスによらなければ、神の国を見ることもできないと言うのがニコデモに語られたイエスのお言葉でした。
従ってヨハネ四章二三節の真の礼拝を支える基盤としての霊と真理(まこと)」とは、人間の側の事柄ではなく、神の側の「霊と真理(まこと)」のことだと言う事ができます。その意味でヨハネ四章のこの箇所は、御子を通して、人が神に近づくこと、神を知る事、神と交わる事、そして神を礼拝する事が許されるという時が来ると言う宣言なのです。従ってここで礼拝とは、神ご自身が主体的導きの御手をもって、神の主権を持って、神ご自身の側からの働きかけとして神が完成される神の業だと言う事なのです。ですから礼拝は、神の恵みによって私たちに与えられた特別なものなのです。故に人間中心の神礼拝は、聖書が教える神礼拝からはおおよそかけ離れたものとなってしまうのです。確かに礼拝者への配慮を失った礼拝は形式主義に陥ってしまい、冷たい礼拝プログラムをこなすだけの礼拝になり下がってしまうことでしょう。けれども礼拝を献げることが許されていると言う事に対する自覚の足らなさ、自己中心的な気まぐれで、礼拝に参加してやっていると言う傲慢な礼拝姿勢について何の問題意識も感じない事の方がはるかに大きな問題ではないでしょうか。
またこの世と調子をあわせてはならないとローマ人への手紙の中でパウロは警告しております。それは、私たちが神に喜ばれる霊的な礼拝を献げる為です。この姿勢は、日曜日に礼拝の為に一堂に集まってなされる礼拝のことだけでなく、日常生活におけるクリスチャンのあり方を教えています。神を意識し、神の御前において自分の心が、言葉と行状が、ふさわしい者となっているかどうかを問うと言う事です。この生活姿勢が全く無視されているならば教会での礼拝は、その礼拝者にとって人間を中心とした礼拝(自分を楽しませ、気分を良くさせるもの)でなければ、きっと魅力を感じなくなっていることでしょう。私たちは、神をあかしする事を喜びとする民なのです。