全てが神の御手の中にある
「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(エペソ一章十一節)
私たちが生きている「いのちの現場=現実世界」は、様々な事柄(喜び・楽しみ・事故・災害・病・飢餓・暴力・犯罪・戦争・恨み・嫉み等)が起こります。「どうして!」と絶句してしまうほどの悲しみを味わうことが起こります。これらは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられたクリスチャンにも起こります。その時私たちはどう理解するでしょうか。嬉しい事を神様に忠実に従っている褒美としての祝福である、と自分の功績に対する報いとするならば、逆に「このような悲しい辛いことばかりがクリスチャンである私に起こるのは、きっと神の前に不従順だったから、裁きか懲らしめまたは呪いが起こった」とすることでしょう。その方は、神の主権も力も知らないのです。そして私たちは、神の力も聖書も知らない事になるのです(ヨブ記参照)。
聖書は、神はすべて世に起こってくる出来事をご存知だと教えています。そして私たちのうちに起こってくる全ての事は、罪を別にしてその御旨の内に初めからあったことと教えます。全ての出来事は(私たちは知りえないことばかりですが)、神の永遠のご計画(聖定)と無関係に存在することは一つないと信じます。
これは、運命論や宿命論・偶然論や決定論とは全く違います。これらは、人格的な交わりをもたらす存在はなく、原理や法則があるだけです。そこからは、未来に対する期待や望みを持つ余地も、思いも与えられないのです。ただあるのは、起こってしまった出来事に対する厭世的な諦めしかないのです。
神の深い永遠のご計画(聖定)とは、世界と歴史と人生の中に生きて働く無限の人格神との深い関係を教えているのです。神の御性質(全知・全能・善・義・公正・聖性・愛・憐れみ等)の富んでおられるお方との関係(人格関係)なのです。神の永遠のご計画に気まぐれはありません。そしてその御計画は、神ご自身の栄光をあらわす為のご計画なのです。そして神が、ご自身の栄光を求められるのは、利己的であり誤ったことではないのです。神は万物の創造者であり、万物は神の栄光の為に存在させられたのであり、存在しているのです。人間が他の全てのものに勝って自己自身の栄光、満足を追及するならば、それこそが利己的であり間違ったこと(原罪そのもの)なのです。私たちのうちに与えられた全てのことについて、偶発的とか偶然とかいわれるものはなく、神の栄光をあらわすべく神が用意されたものなのです。ですから、私たちにふさわしい姿勢は、全て起こってくる出来事をただ神の栄光の為になすべき事をただなすだけなのです。それが、人間存在の原点(生きるという事)です。
私たちが生きている「いのちの現場=現実世界」は、様々な事柄(喜び・楽しみ・事故・災害・病・飢餓・暴力・犯罪・戦争・恨み・嫉み等)が起こります。「どうして!」と絶句してしまうほどの悲しみを味わうことが起こります。これらは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられたクリスチャンにも起こります。その時私たちはどう理解するでしょうか。嬉しい事を神様に忠実に従っている褒美としての祝福である、と自分の功績に対する報いとするならば、逆に「このような悲しい辛いことばかりがクリスチャンである私に起こるのは、きっと神の前に不従順だったから、裁きか懲らしめまたは呪いが起こった」とすることでしょう。その方は、神の主権も力も知らないのです。そして私たちは、神の力も聖書も知らない事になるのです(ヨブ記参照)。
聖書は、神はすべて世に起こってくる出来事をご存知だと教えています。そして私たちのうちに起こってくる全ての事は、罪を別にしてその御旨の内に初めからあったことと教えます。全ての出来事は(私たちは知りえないことばかりですが)、神の永遠のご計画(聖定)と無関係に存在することは一つないと信じます。
これは、運命論や宿命論・偶然論や決定論とは全く違います。これらは、人格的な交わりをもたらす存在はなく、原理や法則があるだけです。そこからは、未来に対する期待や望みを持つ余地も、思いも与えられないのです。ただあるのは、起こってしまった出来事に対する厭世的な諦めしかないのです。
神の深い永遠のご計画(聖定)とは、世界と歴史と人生の中に生きて働く無限の人格神との深い関係を教えているのです。神の御性質(全知・全能・善・義・公正・聖性・愛・憐れみ等)の富んでおられるお方との関係(人格関係)なのです。神の永遠のご計画に気まぐれはありません。そしてその御計画は、神ご自身の栄光をあらわす為のご計画なのです。そして神が、ご自身の栄光を求められるのは、利己的であり誤ったことではないのです。神は万物の創造者であり、万物は神の栄光の為に存在させられたのであり、存在しているのです。人間が他の全てのものに勝って自己自身の栄光、満足を追及するならば、それこそが利己的であり間違ったこと(原罪そのもの)なのです。私たちのうちに与えられた全てのことについて、偶発的とか偶然とかいわれるものはなく、神の栄光をあらわすべく神が用意されたものなのです。ですから、私たちにふさわしい姿勢は、全て起こってくる出来事をただ神の栄光の為になすべき事をただなすだけなのです。それが、人間存在の原点(生きるという事)です。