御言葉メール(みことばメール)
御言葉メール632
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御言葉メール632
2012年5月12日
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5の4)
明日(5月第二日曜日)は「母の日」です。一人のクリスチャン(アメリカ女性)の母に対する愛情から始まったこの日は、その国々の意味づけを持ちながらも、全世界に広まりました。私の母は亡くなりましたが、この母の日は、今、私がここに存在するルーツを思い返す日でもあります。
精神を患った母への思いは反感、恥ずかしさでしたが、それは私自身の不公平感や幸せ感を形成してきました。なぜ私の母だけおかしいのか、そういう母がいるから自分は不幸だ、と。何かがそろっていることが幸せ、しかしこれは結局自分の願いどおりの状態にならなければ、幸せではないと思う事でした。不幸の原因を人のせいにする状態はみじめで、それ以上に自分の存在意義を見失わせます。
その私をキリストがとらえて下さった。幸せは私達の外側(家族環境、健康、経済等)ではない、悲しみや辛さを持ちながらも、罪赦された心こそ幸いだと。病者に寄り添う心は、病気の理解と同時に自分の罪のひどさ、醜さに悲しみつつも赦しの恵みを経験しながら培われていくのではないかと思う、母の日です。
御言葉メール631
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御言葉メール631
2012年5月7日
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15の4)
クリスチャンは、よく御言葉によって守られ、支えられるといいます。これは私の生活においても本当に真実です。礼拝においてメッセージを聞き、日々の生活で聖書の言葉を読む。何気ない事の連続の様に見えながら、それがある生活と無い生活では、まるっきり自分の生活が変わってしまうのです。
どんな事情であれ、聖書のことばをしばらく読まなかったり、メッセージを聞けなかったりすると、知らないうちに焦っていたり、しなければならない事が山積みになっているような思いになります。一つずつ片付ければ済むことですが、神を第一とする優先順位がつけにくくなって焦るのだと思います。
しかし聖書を読んだり学んだりできる日々は、困難な問題を抱えていたり、やらなければならない事があっても、み言葉を通して神にゆだねる事に心を向けさせられる。何かをする事が第一ではなく、神に心を向ける事を先ず優先する時、励ましと忍耐は望みと平安に私達を導いてくれるでしょう。
御言葉メール630
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御言葉メール630
2012年4月28日
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために・・・」(ルカ18の1)
以前、主人に、「信じて祈ってもきかれなかった」と言った時「なぜ途中で諦めるのか、信じて祈ったのなら最後まで信じ続けて祈ればいいだろう」と、半ばケンカ越しで言い合った事があります。その時、フト私は、そうだ、今自分の願い通りになっていないからといって、どうしてここで結論を出してしまっていたのだろう、と気づきました。
自分の願わない結果が目の前に在ったとしても、父なる神は、子どもがパンを求めるのに石を与える方では決してありません。私達が何を願っているか知っておられる神は、私達に一番必要なものが何であるかご存知なのです。神は愛と慈しみに富んでおられる真実な方です。人間の様に忘れたり、意地悪をしたりする神ではありません。神が与えられるもの、見せてくださるものは、だから私達にとって最善なのです。
それがわからない時も多くあります。しかし諦めないで失望しても祈り続ける時、みことばは確かに真実だと経験させていただけるでしょう。どうか私達が諦めないで絶望の中からも、祈り続ける事ができます様に。
御言葉メール629
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御言葉メール629
2012年4月21日
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒行伝17の28)
私が信仰を持った時、父は、「ほどほどに」とか「生活に差し障りがないように」と言いながら、どうせすぐ止めるだろうと考えていたようです。私は何でも飽きっぽい性格で、その点でも心配はしていませんでした。
だから伝道者と結婚をしたいと言った時、父は本当にあわてました。経済的保障が無い生活、というのは父親にとって考えられない事だったのです。信仰が悪いわけではないが、生活がきちんとできて、その上で心の支えとして信仰を持つ。父の様な考えは日本では多くの人が持つ思いだと思います。根底にあるのは経済的自立が先で、信仰はその土台の上に乗っている。この固定観念は聖書の伝える神を、なかなか理解させにくい。
なぜなら聖書の神は、人間の心の安定だけのための神ではないからです。天地を造り、人間をそれぞれ目的を持ってお造りになった。人間の存在まるごと、生きるのも死ぬのも富も貧しさも健康も病も全て、まことに神を土台としている。私達一人一人を愛し赦す神を土台とする時、お金や健康や仕事から自由になる経験が始まります。
御言葉メール628
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2012年4月14日
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5の1)
聖書は、人間の救いにおいて、人間の行いを完全否定します。それでは聖書は、行いについてどの様に教えているのでしょうか。ガラテヤ書においてパウロは、キリスト者のもつ自由との関わりの中で行いについて論じます。律法(規則)は守る事ができたと思う時、安心感と他者に対する様々な思いを引き出します。
できない人への怒り、自分だけしているという不満等。出来なければ、みじめさにつながる。行いに頼る時、妬み、怒り、虚栄、みじめさから抜け出る事はできません。それを聖書は奴隷の状態だというのです。そこに人間の内的自由はありません。しかしキリストを信じて与えられる御霊は、しなければならないという行いではなく、神と人を愛する事を動機とする行いへと私達を導いてくださる。
御霊に導かれる行いは妬み、怒り、虚栄、みじめさから解放する。パウロはこれを自由と言うのです。御霊は必ず私達を導かれる。葛藤や逆らう事があっても、御霊は赦し、平安を与え、善を行わせてくださるのです。
御言葉メール627
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2012年4月7日
「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ3の2)
先週、主人の母が亡くなりました。ずっと義母を介護してきた主人の姉は、もっとこうしてやっていれば、とか、もっと優しくしていればとか新しい下着を着せたのがよくなかったのではないか、とか、自分のやってきた事一つ一つを、93歳の義母の死に結び付けて自分を責めていました。
主人は、それは介護した人の苦しみで、介護しなかった自分達は、もう年だからと言って案外割り切れてしまう、と言っていました。介護はその家庭の事情にあった多様な方法をとるべきですが、確かに主人の言うことは、介護に限らず、全ての事に適用できる真実かなと思います。それにしても姉は、田舎とはいえ一人で数年間、義父母の介護を引き受けてきました。
私などとてもできない介護生活でした。その姉をして、自分のやってきた事への後悔があふれ出す。行いでは決して人は満たされない、と胸が痛みます。律法(行い)は御霊を与える事ができないので、行いで人は永遠に義しいとされる事はありません。キリストへの信頼だけが救いです。
御言葉メール626
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2012年3月31日
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。」(ガラテヤ2の19)
パウロは、神に生きるために、律法(自分の行い)に死んだと言います。神に生きるとはキリストを信じて義しいとされる道で、行いのりっぱさによらない、という事です。行いに死んだ、これは現実的にどういう風に考えたらよいのか。自分の思い、状態、行いで自分と人を決定づけてしまわない、といえるかもしれません。
私自身、自分の目に見える状態で自分も人も判断しやすい者です。判断するというのは自分の理想とする状態があるからでしょう。あるべき夫婦関係、親子関係、教会の交わり、健康等々。それらのあるべき状態こそ絶対だとして求めるなら、それは行いを求める事になり、あるべき状態にない自分や人を否定することになります。行いを求めるなら人はその行いに縛られる。
キリストを信じる私たちが求めるのは、キリストに目を留め、ゆだねる歩みです。そこには、どんなに悲惨な状態でも現実を受け入れる力が与えられるでしょう。自分の行いではなく一方的に与えられる恵みによって、人を愛する事を教えられ、善い行いもさせていただけるのです。
御言葉メール625
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2012年3月24日
「律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2の16)
ルターはビッテンベルク大学での第1回ガラテヤ書講義を終えてから、城教会の門に「95か条の論題」をはりだしたといわれます。それは具体的にはカトリック教会の免罪符販売に反対するものでしたが、その根底にはカトリックの善行による救い、の教えの非難がありました。
神に受け入れられるのは善行ではなくキリストへの信仰であることを理解したルターによって、宗教改革はもたらされました。パウロにしてもルターにしても、律法の行い、善行が大事だとする当時の一般的理解に対して(これは現在においても同じです)神の御心はそうではないと言い切った人達です。もし神に受け入れられるために人間の行いを評価していたなら、これほどの反対に会う事も戦う必要もなかった。
外見の言葉や態度、行為で高い評価を得て認められていても、神はそれで人を受け入れられない。現代に生きるキリスト者の私達の戦いはどういうところにあるでしょうか。人に対して社会に対して、今の自分の思いや行いはどうなのかを吟味しながら戦う所を見極めていけます様に。
御言葉メール624
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2012年3月17日
「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1の8)
パウロの福音の中心は律法の行いによらず、ただ信仰のみによる、という信仰義認です。それに反する者はたとえ天の御使いであろうと呪われよ、と、十字架の死の意味を無効にする行いに対して戦うのです。
しかし実は旧約時代から律法の意味は、行う事を通して、行う事が出来ない自分の姿を気づかせ、メシアを期待し神に信頼するためでした。不妊の女であったサラも、夫に愛人を与えて子どもを得ようとした。エリコ在住の異邦人で遊女ラハブは、同胞にうそをついてイスラエルのスパイをかくまった。一つ一つの行いをみると、時代背景を考慮しながらも、その行いの故にりっぱな人物とはいえないところです。
しかし聖書は彼らを賞賛している。それは行いではなく神に対する信仰の故です。パウロが戦った信仰義認の教理に私達も立てます様に。罪は行いによって自分を義としたがります。行いは自分を正当化します。しかし信仰は、自分の罪が赦される恵みと平安を教えてくれます。
御言葉メール623
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御言葉メール623
2012年3月10日
「私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。」(使徒22の7)
パウロはクリスチャンを迫害していた自分が、何故 、迫害していたイエスキリストを信じる様になったかを、同胞ユダヤ人に証しします。一人でも多くのユダヤ人を救いに導くためでした。私達も神の救いを知ってもらうために、神のことばである聖書を伝えます。
同時に自分がどの様にしてクリスチャンになったかを話す事で、神様がどの様な方であるかを人々に紹介しているのです。又、キリスト者として生きていながら苦しみの中にある人、たとえば祈り求めても与えられない、信じて祈っても癒されない、先の見えない不安の中にいる―人にはわからない絶望や孤独、悲しみの中でそれでも神を信じようとしている人に、同じ様な経験をした人の証しは神に向く助けを与えるでしょう。
私自身は、願った様に祈りは答えられず、神は私の苦しみを御存じだろうか、という不信の中で、「それでも神は正しい」と、思いたくはないけど否定できない強い思いが存在しました。理論的に説明できない一人一人の神のお取扱いは、語られる時に周りを益します。