御言葉メール205
2006年7月19日
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第1ヨハネ4の10)
私はつくづく、自分という人間が自己中心だなあと思います。自分にとって、得か損か無意識のうちに考えているのです。それを自覚して悔い改め、更に、自分にとって損得ではなく、神の愛を教えてその中を歩ませてください、と祈れるようになるまでに時間がかかります。
毎回のことながら、この作業を通して自分のうちに愛が無いことを教えられます。しかしその中で、主は私に一つの祈りを与えられました。「私がこの人を愛している事をあらわす事ができますように」、という祈りです。神様は御子キリストを遣わす事によって御自分の愛をあらわしてくださいました。そのことによって、初めて愛というものが何かを知った私が、今度は家族や他者を愛したいと願わされる。
自分の思いを主張したい私が、他者への愛を表す者にさせて欲しいと祈らされるーもし神の愛が無いならば、絶対にあり得ない事があなたと私に起こります。
御言葉メール205
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