御言葉メール918
2018年2月3日(記:斉藤文子)
「『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」(エゼキエル3の3)
冒頭の「巻き物」は、みことばのことです。エゼキエルは、天から指し伸ばされた手に、ひとつの巻物が握られている、という幻を見せられます。それを食べると蜜のように甘かった。巻物を食べるとは、みことばを聞くことです。日々のキリスト者の歩みにおいて聖書を読み、神の語りかけを聞き応答の祈りをする。キリスト者がこの世で生きるという事は、みことばを抜きにしては成り立ちません。意識してもしなくてもキリスト者はそこでしか養われない。エゼキエルがみことばが蜜の様に甘い、という時、私は神のみことばによって養われる、幸いな人の姿を思い浮かべます。私もそうなりたい、と願いながらなれない姿です。
しかしその巻物は、神の嘆きと悲しみで埋め尽くされていた。神の義と愛は、それを知りながら離れるイスラエルに対して痛恨の極みでした。エゼキエルは、そのみことばを甘いという。反逆する民に対して、罪を罰せないではおれない神は、しかし愛さないでもおれない。そういう神を知る時、みことばによって養いを受け、自分の罪を教えられ、それを悲しみ、それゆえに神を飢え渇き求める者にとって、聖書のことばは蜜の様に甘く、どの様な状態にあっても、神の恵みの十分さを教えられ、確信できるのではないでしょうか。