御言葉メール935
2018年6月9日(記:斉藤文子)
「彼らは『主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。」エゼキエル8の12
エゼキエルは1年以上を経て、再び同じ幻を見、その幻の中でエルサレムに連れて行かれます。そこで彼は、神の栄光で満ちているはずの神殿に偶像が置かれているのを見ます。そればかりではなく、あろうことかイスラエルの指導者達によって、神殿の隠れた部屋で偶像崇拝が行われていた。更にバビロンの神を拝む女達、エジプトの太陽を拝む、多分、祭司たち。唯一の神の栄光で満ちているはずの神殿は、神を信じる指導者、神に仕える祭司を始めとして偶像崇拝の巣窟となりさがっていたのです。
まことの神を知っている民が何故、と私などは思いますが、唯一の神を信じながら偶像崇拝をし続けてきたきたイスラエルの歴史は、現在、神を信じながら生きている私自身の弱さや罪と重ね合わせれるものでもあります。自分の思い通りにならない時、主は私をかえりみておられない」と思い、神に期待することを止め、神のことを考える事をやめることで自分の心を保とうとする。偶像を拝まないにしても心を神から離すことは、神以外のものを何でも取り入れてしまいやすいのです。
私達が、主は私達を見ておられない、私達は見捨てられたと思う時、どうかその思いが私達を神から離す事がありません様に。神が私達を見ておられるからこそ、何故と問わざるを得ない状況も起こったと理解できる時、私達は主権者なる神に期待できるのではないでしょうか。