御言葉メール947
2018年9月22日(記:斉藤文子)
「…ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。」(第1ヨハネ4の17)
私達は自分にとって嫌な事が起こった時、何かのバチが当たったといいます。しかし逆に自分の計画がうまくいくと、「自分ってすごいかも」と得意になるのです。そういう事を考えてみると私達人間は、基本的にというか本能的にというか、人間の罪について「バチが当たる」くらいの軽さでとらえるしかできないようです。しかし、人間の罪に対して下される神の判決は、永遠の滅び、裁きなのです。
罪の結果は、死であると聖書には書かれています。全く次元が違うのです。人間は神に対して罪を犯しその結果の裁きが魂と肉体の死です。この様に裁き(罰)の結果を負いながら、人間は生きているわけです。そうすると生活の全てにおいて罰やバチがあたる、という思いは、人間本質の部分から出てこざるを得ないものだとわかります。しかし聖書は冒頭の聖句の様に、裁きの日に確信を持つことができる」といっています。キリストが私達の罪を背負って身代わりとなって死なれた事を信じる時、神への罪(ここには人への罪も勿論はいります)はことごとく赦される。
神はキリストを信じる者を決して裁かれない、罰せられない。なぜならすでにキリストが裁かれたからです。私達の日常は変わっていきます。「バチがあたる」という不安感、占いや様々な神々に頼らざるを得ない不安定さの中にいなくてもいいとわかるからです。犯す罪がことごとく赦される平安は、思う様にいかない時も自分の失敗やミスは反省し悔い改める恵みと、なぜかわからない時も委ねれる恵みの中から生まれます。