御言葉メール997
2019年10月12日(記:斉藤文子)
「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」ヨハネ11の14,15
私達人間にとって、避けることのできないものが死です。私達は毎日、死に向かって歩んでいるといえるでしょう。しかも死は滅び以外のなにものでもないのです。人が亡くなると私達は葬儀に行き、遺族を慰めたいと思いながらも、ことばにのせれない思いを神に祈ります。
しかしイエスは違いました。死んだラザロの葬式にいき、遺族に会って慰めを言うのではなく、ラザロに会いにいく、と言われるのです。もうすでに死んでいるラザロにです。墓に来られたイエスは、墓の前にある石を取り除く様に言われます。私達の目の前には確かに自分ではどうにもならない石しか見えない時があるかもしれない。この死こそその最たるものです。しかしイエスはその石の向こうの死んだラザロに会いにこられた。
イエスがラザロに声をかけられると、ラザロは手足を布にまかれたまま出てきた、生き返ったのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエスは、人間が誰でも通らねばならない死を滅ぼされました。それはイエスを信じる者は、生きても死んでも永遠のいのちの中に生きているという事です。
生き返ったラザロは肉体的には死んでいきますが、復活の主であるイエスへの信仰によって永遠に生きています。死に向かって歩んでいた者がいのちに向かって歩む者に変えてくださったイエスキリストこそ私の主です。