御言葉メール1066
2021年2月20日
そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』
病人は答えた。『主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。』(ヨハネの福音書5章5-7節)
ベテスダと呼ばれる池のまわりの回廊には、多くの病人、盲人、足のなえた者たちがいた。御使いが降りて来て池の水をかき回し、水が動いたとき最初に入った者は、どのような病気にかかっていても癒されると信じられていたからである。
すべての権威を持ち、真に人を救うことができるお方を前に、三十八年もの間患っていた病人は、自分を池に入れてくれる人がいないと嘆く。
この人は癒されたいのか、それとも他の者より先に池の中に入りたかったのか。
あまりにも長い間(おそらく彼の人生のほとんど)病気であったので、治るという希望は潰え去り、池の中に入る人をただ毎日羨望の目で眺めていたのであろう。
いつの間にか一番に池に入ることが、彼の目標となっていたかもしれない。だがそれさえ、病に侵された不自由な体では叶わなかったのである。
しかしイエス・キリストは、彼に目を留め、彼に近づき声をかけ、彼を癒された。ただご自分の権威によって。
人は真に向き合うべき問題よりも、別のものを執拗に求めてしまうことがある。
私たちも罪に対してそうであった。そしてそれを解決してくださるお方もかつては知らなかった。
今は神の一方的な憐れみにより、イエス・キリストの十字架の贖いによって救いを得た。
なんとなくこの病人が、自分と重なるのである。